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月ヶ瀬梅渓(月瀬記勝)








梅谿遊記二解説

『月瀨記勝』乾巻の図版 日本漢文の世界 kambun.jp
風景図2

[題字]幽蹊蛇蟠
[訓読]幽蹊(いうけい)蛇蟠(だはん)
[現代語訳]山奥の小道は蛇行している。

 一目千本は、尾山八谷(おやま・やたに)の一つで、尾山八谷は昔からの風情が残っているといわれる場所です。一目千本のあたりは、当時は一目で千本の梅の木が見える場所だったのですが、現在ではせいぜい数十本の梅の木しか見えず、当時の面影は全くありません。吉野の「一目千本」は現在も桜の見所として有名ですが、当時は月ヶ瀬の「一目千本」も、それに劣らぬ盛大な花を誇ったのでしょう。

月ヶ瀬梅渓(一目千本) 日本漢文の世界 kambun.jp
現在の一目千本附近。往時の盛況は見る影もありません。

 「一目千本」という地名が桜の名所である吉野の「一目千本」にちなむものであることは明らかですが、拙堂先生はこの地名は俗すぎると感じたようで、初稿では「千樹梅」と意訳していました。しかし頼山陽はこれを「一目千本」に戻しています。地名は意訳せず、そのまま用いたほうがよいと考えたからでしょうか。ちなみに頼山陽自身には大分県中津市の「山国谷」を「耶馬渓」と称した例がありますが、これは意訳ではなく「やま」を「耶馬」とした音訳です。のちに拙堂先生は『拙堂文話』の中で「けだし名を正すは、学者の先務にして、慎まざるべからざるなり」と書き、官名や地名を勝手に中国風に変えてはいけないと論じています。(『全釈拙堂文話』明徳出版社506ページ以下)

月ヶ瀬梅渓(一目千本) 日本漢文の世界 kambun.jp
現在の一目千本附近。梅の木がほとんどなく、往時の盛況は見る影もありません。

 拙堂先生の一行は、一目千本の谷を下から上へと登っていきました。その情景を吉野の「一目千本」や嵐山の桜と比べ、吉野の一目千本は「月ヶ瀬の一目千本と同じく花は多いけれども、月ヶ瀬のような山と川の景勝はな」く、嵐山の桜は「月ヶ瀬と同じような山と川の景勝はあるものの、花は少ない」と評しています。正直な先生は実際には吉野に行ったことがなかったため、「余はかつて夢に吉野に遊ぶ」と書いていましたが、山陽は「夢」の字を削りました。文章のレトリック上では、実際に行ったかどうかは問題とならないからです。さらに山陽は杭州の孤山、蘇州の鄧尉(とうい)、羅浮山の梅花村という中国各地の梅の名所と月ヶ瀬を比べています。中国の名所など、当時の鎖国日本の文人は誰も行けない場所のはずですが、それを書物から得た知識だけで論じて見せるわけで、このような衒学も江戸シノワズリの作法の一つなのでした。

月ヶ瀬梅渓(一目千本) 日本漢文の世界 kambun.jp
現在の尾山八谷の一部。


2019年5月2日公開。

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