日本漢文の世界

 

月ヶ瀬梅渓(月瀬記勝)








梅谿遊記一解説

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※本文を見るには、ページの上下にあるナビボタンで、「原文」「現代語訳」などを選んでください。「刪潤」をクリックすると、頼山陽が拙堂先生の原案を添削した内容を示した『賴山陽刪潤梅谿遊記』を表示します。

 記の一では、月ヶ瀬梅渓の概要を述べています。冒頭の文「何れの処にか梅なからん、何れの処にか山水なからん、・・」は、強烈な印象をもって迫ってくる名文ですが、この部分は頼山陽が付け加えたものです。山と川の間に梅の花が咲き乱れて素晴らしいハーモニーが織りなされている様子を表現した最初の一文は、拙堂先生の初稿では「和州梅渓の奇なることは天下に冠たり」という、まことに平凡な文章だったのです。そこを大胆に添削した頼山陽の筆の冴えは凄まじいです。

 この「何れの処にか梅なからん、何れの処にか山水なからん、・・」という表現は、蘇軾の『記承天寺夜遊』(『東坡志林』所収)の次の一節を参考にしたものだと思われます。

何夜無月、何処無竹柏。但少閒人如吾両人耳。

何れの夜か月無からん、何れの処にか竹柏無からん。但(ただ)閒人(かんじん)吾が両人が如きもの少(まれ)なる耳(のみ)。

月のない夜などあるだろうか。竹や柏(ひのき)がない土地がどこにあろうか。ただ、(月や竹柏を楽しむことのできる)我ら二人のような暇人が珍しいだけなのだ。

月ヶ瀬梅渓 日本漢文の世界 kambun.jp
「花、山水をさしはさむ」景観。

 記の一では、月ヶ瀬の地誌的事実について述べています。拙堂先生は、古い記録によるとこの地はもともとは伊賀国だと主張していますが、これについては必ずしもそうとは言い切れないようです。
 もともと月ヶ瀬は痩せた山地で穀物生産に適さないため、重要な土地とはみなされませんでした。平安時代以降に荘園が設けられ、奈良の興福寺領ということになっていましたが、詳しい記録等はないようです。
 この地の重要性が認識されるようになるのは、のちに烏梅(うばい)の生産が始まってからです。この地に烏梅の生産方法を伝えたのは、南北朝時代にこの地に隠棲した後醍醐天皇の女官・園生(そのう)の姫若(ひめわか)だと伝えられています。その後、戦国の世を経て、江戸時代に烏梅の生産は拡大し、10万株を数える大規模な梅林となりますが、山奥であるため、その景観は世間にほとんど知られていませんでした。これが拙堂先生の『月瀬記勝』で一挙に著名観光地となったのです。

月ヶ瀬梅渓 日本漢文の世界 kambun.jp
満開の梅。

 拙堂先生は、この花見旅行の同行者について、14人であったと初稿に書いています。この記述は頼山陽が削除してしまったため、完成した作品だけを読むと、数人の親しい友人だけで行ったかのように思えます。しかし実際には、後の文に出てくるように、下僕に酒樽を背負わせて、十数人がワイワイガヤガヤとにぎやかに観梅に訪れたものであり、ピクニックのような団体旅行だったのです。
 拙堂先生は津より弟子である宮崎子達(青谷と号する画家)、宮崎子淵(子達の弟)、山下直介を伴って伊賀上野に来ました。そして伊賀上野のメンバー服部文稼、深井士発、山本素佛(山本の名は頼山陽が削除)らが道案内役をしました。また、となりの美濃国(岐阜県)から詩人の梁川星厳・張紅蘭夫妻が参加し、また遠江(とおとうみ=静岡県)からは画家の福田半香が参加しました。これだけでも8人ですが、その他酒樽を担いだ下僕らを入れると総勢は14人となったわけです。14人という人数を頼山陽が削除したのは、大人数すぎて無粋だと思ったからかもしれません。
 彼らは「未下(びか)」の刻に伊賀上野を出発します。「未下」の刻とは、「未(ひつじ)」の刻(午後1時頃から3時頃)の約2時間を上・中・下の三つに分けた「下」の刻、つまり午後2時20分頃(当時の時刻はそれほど正確ではありませんので、訳では午後2時過ぎとしました)に当たります。「未下」の語はほとんど用例が見当たらず字書等には不掲載ですが、センテンス中の位置から時刻に関する語であることが分かります。(この項は斎藤正和先生の御教示によります。)

『月瀨記勝』乾巻の図版 日本漢文の世界 kambun.jp
月ケ瀬の略地図

 そこから1里(約4キロメートル)で白樫、さらに1里で石打、そこから1里も歩かないうちに尾山八谷に着いています。当時の人々は健脚ですから、1里を1時間程度で歩いたとすると、夕方5時までには尾山に着いていたはずです。
 そして彼らは「三学院」に立ち寄って宿泊予約をし、さっそく花見へと向かっています。行先は「一目千本」です。当時「一目千本」は、月ヶ瀬随一の梅の名所であったようです。

月ヶ瀬梅渓(一目千本) 日本漢文の世界 kambun.jp
現在の一目千本附近(代官坂)。梅の木はまばらで、往時の盛況は見る影もありません。

 「三学院」は尾山の旧家であり、もともとは旅館ではなかったようです。拙堂先生が訪れた当時は、現地に旅館などもなく、月ヶ瀬を訪れる名士たちは「三学院」に宿泊させてもらうのが通例になっていたようです。稲葉長輝氏によれば、大正時代に当家が没落したことにより、所蔵されていた名士たちの墨蹟も多くは散佚したとのことです(『歴史散歩月ヶ瀬梅林』166ページを参照。)。その後、三学院跡は旅館「万龍」となりましたが、現在は旅館も廃業しており、一般の方が入居されているとのことです。

月ヶ瀬梅渓(三学院跡) 日本漢文の世界 kambun.jp
三学院跡。現在の住人の方の許可を得て撮影。


2019年5月2日公開。2020年2月4日一部修正。

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