日本漢文の世界

 

月ヶ瀬梅渓(月瀬記勝)








梅谿遊記一現代語訳

 梅のない土地がどこにあろう。山や川のない場所がどこにあろう。ただ、大和の国(奈良県)の梅渓は、花が山と川を両側から挟み込んでいるのは珍しく、山と川は花と相まって美しく、天下の絶景である。しかるにその地は大和の国の東の隅にあり、人里離れているため、以前は来訪して花を見る人もまれで、その名はほとんど世に知られることはなかった。この地を世に知らしめたのは、我ら伊賀人が始めだということだ。
 谷川のそばに梅を植えることを生業としている村が、全部で十村ある。石打、尾山、長引、桃香野、月ノ瀬、嵩(だけ)、獺瀬(おそせ=遅瀬)、広瀬の八村は大和の国(奈良県)に属し、白樫と治田(はった)の二村は伊賀の国(三重県)に属している。わが藩の伊賀上野の南、約三里(12キロメートル)ほどのところにある。(原注:「里」は古代の単位ではなく、現在用いられている単位を用いている。)わが藤堂藩の領土は、伊賀の国全体と、伊勢の国の半分のほかに、山城の国(京都府)と大和の国(奈良県)の耕地が五万石あり、梅渓の周りを囲んでいる。にもかかわらず、梅を植えている村は、そのほとんどが他藩の領土であり、大和の国の広瀬と嵩(だけ)の二村、および伊賀の国の白樫と治田(はった)の二村だけが、わが藩の所轄である。しかし古い記録を調べてみると、月ヶ瀬の村々の多くは伊賀の国に属していた。伊賀人は「戦国時代の大名たちの争奪の結果、この地は大和の国に属することになった」といっているが、月ヶ瀬の地勢を詳細にみると、伊賀上野に近く、山脈もつながっているので、道理の上ではこの説も首肯できる。そのため、大和人は当地をほとんど訪れないのだが、伊賀人はここ四五十年来、毎年のように花見に赴いている。かくて梅渓の名勝は有名になったのである。
 この十村に幾万株の梅があるのか、とても数えきれないが、すべての梅の木が川沿いに植えられているわけではない。川沿いの梅はこのうえなく美しい。川は水源が大和(奈良県)の宇陀で、伊賀(三重県)の名張を経てこの地に至る。川幅は百歩(百メートルあまり)ほどである。尾山はその北岸にあり、嵩(だけ)、月ノ瀬、桃香野の三村は川の南岸にある。高い山や岩がその間に群がるように聳え立ち、梅がたて糸、松がよこ糸となり、川と竹が飾りになっている。
 私は津に在住している。津から梅渓へは二日の旅程になるため、長らく見物に行きたいと思いながら、実行できなかった。庚寅(かのえ・とら=天保元年1830年)の2月18日(西暦では3月12日)、宮崎子達、宮崎子淵、山下直介と伊賀(上野)へ行ったのを機に、月ヶ瀬に来遊したのである。伊賀上野の服部文稼、深井士発らが道案内をしてくれた。美濃(岐阜県)の梁川公図とその妻・張氏(紅蘭)、遠江(とおとうみ=静岡県)の福田半香も落ち合った。未(ひつじ)の下刻(=午後2時過ぎ)に伊賀上野を出発し、一里(4キロ)あまり進むと白樫である。ここまで来ると山々の間の谷間には梅花が多くなり、少しずつ佳境に入る。そこから半里弱で石打である。そこから一里も行かないうちに、尾山の地が目に前にあらわれ、心は喜びでいっぱいになる。尾山に着くと、いたるところ梅花である。私は初め開花時期に合わず(満開の梅花を見られないことを)恐れていたが、この光景を見てすっかり得心した。まずは三学院に入って休憩し、その晩の宿泊を約束して出発し、一目千本へと向かった。梅渓観賞はここから始まるのである。


2019年5月2日公開。

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