日本漢文の世界

姓・号 齋藤 拙堂(さいとう せつどう)
生没年(享年) 寛政9年(1797)-慶応元年(1865) (69歳)
諱(いみな) 正謙(まさかね)
字(あざな) 有終(ゆうしゅう)
通称 徳蔵(とくぞう)、拙翁(せつおう=致仕後)
雅号 拙堂(せつどう)、鉄研(てっけん)
謚(おくりな) 文靖先生(ぶんせいせんせい=私謚)
出身地 伊勢
師の名 古賀精里
官職等 津藩儒
代表的著作 月瀬紀勝(2巻)
海外異伝(1巻)
拙堂文話(8巻)
拙堂紀行文詩(8巻)
鉄研余滴(4巻)
肖像:

齋藤拙堂 日本漢文の世界
拙堂先生の玄孫・齋藤正和(さいとう・しょうわ)先生にいただいた写真。

伝記:

 拙堂は江戸の津藩邸に生まれた。幼時より聡明で、長じて昌平黌に入り、古賀精里に学び、ことに古文に長じた。
 文政3年(1820年)、24歳のとき津に藩校「有造館」ができると、学職に任ぜられた。
 文政4年(1821年)京都を訪れ、頼山陽に会い、以後親交を結んだ。
 文政6年(1823年)藩校講官となり、上士の待遇を受けるようになった。また、藩主侍読となったため、藩主の参勤交代に従い、江戸と津を隔年で往復することとなり、その間にさまざまな名勝を探訪した。
 文政13年(=天保元年、1830年)、初めて奈良県の月ヶ瀬に遊び、『梅谿遊記』(『月瀬紀勝』所収)を書き上げた。この文章は、頼山陽の全面的な添削を受けて更に格調高いものとなり、拙堂の文名を一時に高めた。
 天保12年(1841年)郡宰となり、弘化元年(1844年)督学となる。督学としては、『資治通鑑』の刊行や、江戸への学生派遣のほか、種痘の実施まで行うなど、積極的な施策を展開した。なお、津藩刊行の『資治通鑑』は、その完成度の高さから「津版」として著名である。津藩は、拙堂の監督のもとに清儒の著書を大量に購入しており、蔵書の多さは他藩の及ぶところではなかった。
 安政2年(1855年)、将軍家定公に謁見を賜った。これは異例のことで、幕府は昌平黌教授に任じたい意向であったが、拙堂は今までの君恩を思い、病気と称して帰藩する道を選んだ。その後ただちに致仕を願い出たが許されず、3年後に許しを得て隠居した。その後も、学徳を慕って諸国から入門してくる学生が絶えなかった。三島中州もこの前後数年間、拙堂に師事した。
 晩年、茶磨山に別荘を作って「栖碧山房」と名づけ、致仕後はここに住み、慶応元年(1865年)ここで亡くなった。文靖先生というおくりなは、門人たちが付けたものである。
2003年6月1日公開。2011年1月1日写真追加。

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