日本漢文の世界

 

月ヶ瀬梅渓(月瀬記勝)








梅谿遊記一語釈

和州(わしう)

大和の国。現在の奈良県。

梅溪(ばいけい)

大和(奈良県)と伊賀(三重県)の境にある。拙堂が訪れたころは、梅が十万株もあり、近畿随一の梅の名所であった。現在は約一万株であるが、今も梅の季節には観光客でにぎわっている。

東陬(とうすう)

東の辺鄙な場所。

幽僻(いうへき)

人里離れていること。

伊人(いじん)

伊賀の人。

石打(いしうち)

伊賀上野から峠を下って月ヶ瀬に入ったところにある集落。中世の石打城址があり、「城山」と呼ばれている。

尾山(をやま)

石打から約1キロほどのところにあり、梅渓の中心地である尾山八谷がある。尾山観梅路が設けられており、梅の季節には茶店等が出てにぎわいを見せている。現在「梅の郷 月ヶ瀬温泉」になっている辺りは、園生(そのう)の森と呼ばれていたところで、後醍醐天皇の側女であった園生の姫若がこの地に落ち延び、梅が多いのを見て村人に烏梅の製法を教え、これにより当地で梅栽培が始まったと伝えられいる。

長引(ながびき)

「名勝月ヶ瀬梅渓資料館」の西側の坂道を登っていったところにある集落。

桃野(ももがの)

現在は「桃香野」と表記する。この地から見る月ヶ瀬湖と、湖にかかる八幡橋は絶景といわれる。

月瀨(つきのせ)

「月ヶ瀬」の地名のもとになった大字であるが、大字としての名は「つきのせ」と称する。かつて有名な旅館である騎鶴楼や香雲亭に多くの文人・墨客が集ったという。

(だけ)

月瀬の東側にある集落。月瀬と嵩の間の川すそに、「竹陰の渡し」があったという。

獺瀨(おそせ)

現在は「遅瀬」と表記される。

廣瀨(ひろせ)

奈良県山添村にある集落。

白樫(しらかし)

三重県伊賀市にある集落。

治田(はつた)

三重県伊賀市にある集落。

伊州(いしう)

伊賀の国。現在の三重県北部に当たる。

上野城(うえのじやう)

現在の伊賀上野。伊賀市の旧上野市部分である。藤堂氏の伊賀上野藩の城下町として栄え、交通の要衝であった。

封疆(ほうきやう)

領土。

(じやう)()

山城の国(京都府)と大和の国(奈良県)。

舊志(きうし)

古い歴史の書物。

戰國(せんごく)

戦国時代。応仁の乱から豊臣秀吉の天下統一までの時代を指す。

豪強(がうきやう)

権勢を誇り、横暴にふるまう者。ここでは戦国大名を指す。

地勢(ちせい)

その土地の山川等の状況。

和人(わじん)

大和の国(奈良県)の人。

幾萬(いくまん)(かぶ)

当時は十万株の梅があったといわれている。現在は約一万株ほどに減っている。

清絶(せいぜつ)

このうえなく美しいこと。

宇陁(うだ)

現在の奈良県宇陀市。

百歩(ひやくほ)

古代の「1歩」は両足で1歩ずつ歩いた長さで、現代では「2歩」の長さである。六尺にあたるとされ、古代中国では約125センチメートルであった。つまり百歩は百メートルあまりということになる。実際の名張川は一級河川ではあるが、川幅は80メートルほどしかないので、ここでいう「歩」は、現代と同じく片足で1歩踏み出したときの歩幅を示している可能性がある。

危峰(きほう)

高い山。

層巖(そうがん)

高くそびえる山の岩。

簇簇(そうそう)

列をなして群がっている様子。

錯立(さくりつ)

高さの不揃いなものがそびえたっていること。

水竹(すいちく)

水(川)と竹。

點綴(てんてい)

装飾を加えて見栄えをよくすること。

津城(つじやう)

現在の三重県津市。当時は藤堂藩の城下町であった。

庚寅(かういん)二月(にぐわつ)十八日(じふはちにち)

庚寅は「かのえ・とら」の年で、天保元年(1830年)。その年の2月18日は新暦では3月12日に当たる。

宮崎(みやざき)子達(したつ)

宮崎子達(1811-1866)は、津藩士で画家。名は憲、通称は弥三郎、字は子達、青谷と号した。この当時は、19歳の若者で、大先輩である拙堂先生の観梅旅行にお伴し、本書『月瀬記勝』の挿画を作成する機会を与えられた。彼はのちに津藩の藩校・有造館講官を務めている。また後に鎌田梁洲の赤目四十八滝探訪にも同行し、梁洲の『観幕図誌』の画を作成している。

子淵(しゑん)

宮崎子達の弟らしいが、詳細は不明。

山下(やました)直介(なほすけ)

未詳。宮崎子達らと同様、拙堂先生が自藩の後輩として連れて行ったものであろう。

服部(はつとり)文稼(ぶんか)

服部文稼(1790-1856)は、伊賀上野藩士で、同藩の藩校・崇講堂の講官を務めた。名は耕、通称は右助、字は文稼、竹塢と号した。

深井(ふかゐ)士發(しはつ)

未詳。服部文稼の同僚であろう。

(りやう)公圖(こうと)

梁川星巌(1789-1858)は、美濃(岐阜県)の人で詩人。江戸で大窪天民の開いた詩社・江湖社に属していたが、天民の没後、妻紅蘭とともに二十年ほどの旅行生活をした。拙堂先生とともに月ヶ瀬を訪れたのも、その時期である。天保5年(1834年)江戸に戻り、玉池吟社を作って大いに名声を得た。弘化2年(1845年)、居を京都に移し、頼三樹三郎らと交友した。詩を以て幕府を批判したため、安政の大獄に際して幕府は彼を捕らえようとしたが、捕縛される直前に病没したため、妻・紅蘭が代わりに捕縛された。

(ちやう)()

張紅蘭(1804-1879)は、梁川星巌の妻で詩人。詩人としては、夫・星巌の姓を名乗らず、、張氏と称した。星巌は、当時としては珍しく、妻・紅蘭を着飾らせてどこへでも連れて歩いた。安政の大獄では、亡くなった夫・星巌の代わりに下獄したが、半年で釈放され、江戸送りを免れた。夫亡きあとも、詩人として活躍した。

福田(ふくだ)半香(はんかう)

福田半香(1804-1864)は南画家である。

未下(びか)

「未下」の表現は他の文献には見当たらないが、語の位置から時刻を表す語であることは明らかであり、先人たちも「未(ひつじ)」の「下刻(げこく)」と解釈している。
 未刻(ひつじのこく)は、現代の午後1時頃から午後3時頃に相当する。「下」とは、一刻を40分ずつ「上刻」「中刻」「下刻」の三刻に分けた「下刻(げこく)」を表している。すなわち未の下刻(げこく)は、現代の午後2時20分頃に相当する。(当時は日の出、日の入りを基準とする不定時法)。
 午後2時過ぎに伊賀上野を出発し、ゆっくりと歩いても、夕刻までには月ヶ瀬に着くので、梅谿遊記の記述とも合致する。

山谷(さんこく)

山と山の間の谷間。

躍然(やくぜん)

「欣然(きんぜん)」と同じで、喜ぶ様子。

遍地(へんち)

いたるところ。

花期(くわき)

花の最盛期。

(こころ)(くだ)

ここでは「得心した」という意味。(本来は「心服」と同義の語)。

三學院(さんがくゐん)

「三学院」は尾山の旧家。当時は現地に旅館がなく、月ヶ瀬を訪れる名士たちは「三学院」に宿泊させてもらうのが通例になっていた。

(いこ)

「憇」は「憩」に同じ。休憩すること。

梅溪(ばいけい)(しやう)

梅渓観賞。


2019年5月2日公開。

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