月ヶ瀬梅渓
この段では奇跡のような月夜の梅について語っています。
まず、満月と梅の開花時期が合うのを拙堂先生は七・八年も辛抱強く待っていました。それほど満月と梅にこだわっていたのです。
満月の夜に梅を見るのは、シノワズリの作法として重要でした。北宋の林逋(りんぽ)の『山園小梅』詩が教える作法です。林逋は杭州の孤山に梅を三百株植えて「山園」と称し、庵を結んで約二十年間隠遁生活をしたと伝えられています。林逋の『山園小梅』の詩は梅の詩として古今最高の傑作といわれています。
『山園小梅』
衆芳揺落獨暄妍
占盡風情向小園
疎影横斜水清浅
暗香浮動月黄昏
霜禽欲下先偸眼
粉蝶如知合斷魂
幸有微吟可相狎
不須檀板共金樽
『山園の小梅』
衆芳揺落して獨り暄妍(けんけん)
風情を占め盡して小園に向う
疎影(そえい)横斜(おうしゃ)水清浅(せいせん)
暗香(あんこう)浮動 月黄昏(こうこん)
霜禽下らんと欲して先づ眼を偸む
粉蝶如(も)し知らば合(まさ)に魂を斷つべし
幸に微吟の相(あい)狎る可き有り
須(もち)いず檀板(たんばん)と金樽(きんそん)と
『山園の小さな梅』
すべての花が散りつくした中に梅の花だけが美しく咲く
風情を独り占めにして小さな山園に咲き誇っている
そのまばらな枝の影が横に斜めに清らかな浅い水に映り
どこからとこなくだだよう花の香の中にたそがれの月がかかる
霜を帯びた鳥は、(雪と梅のどちらにとまろうかと)まず盗み見している
きれいな蝶々もこれほど美しい花があると知ったら、死ぬほど驚くだろう
この花が小さな声で詩を吟ずるのにぴったりなのはよいことだ
花見の楽器やら酒樽やらは、この花には似つかわしくないのだ
月ヶ瀬梅渓
このような情景を見たさに、待つこと七・八年、とうとうしびれを切らして、花の開花には早いと思われたが満月を三日ほどすぎたころに月ヶ瀬を来訪したのです。
その決断を後押ししたのが邵康節の『安樂窩中吟』詩でした。
『安樂窩中吟』
安樂窩中春欲歸
春歸忍賦送春詩
雖然春老難牽復
却有夏初能就移
飲酒莫教成酩酊
賞花慎勿至離披
人能知得此般事
焉有閒愁到兩眉
『安樂窩中の吟』
安樂窩中春歸らんと欲す
春歸り賦するに忍びんや送春の詩
然りと雖も春老ひて牽復すること難し
却つて夏初の能く就きて移る有り
酒を飲みて酩酊を成さ教(し)むる莫(なか)れ
花を賞するに慎しんで離披に至る勿(なか)れ
人能く此の般の事を知り得ば
焉(いずくん)ぞ閒愁の兩眉に到る有らんや
『安樂窩の中で口ずさむ』
私の書斎・安樂窩の中からも春が帰り去ろうとしている。
春が終われば、(悲しくて)春を送る詩を作ることなど耐えがたい。
春はもはや引っ張り戻すことは難しいかもしれないが、
それは夏の初めへと移り代わってゆくのである。
酒を飲むには、酔っぱらうまで飲んではいけない。
花を愛でるには、けっして満開のころに行ってはいけない。
このへんの塩梅をわきまえることができたら、
うかぬ思いに眉をひそめることもなくなるのだ。
月ヶ瀬梅渓
この段は、拙堂先生の筆が冴え、頼山陽の添削は少なくなっています。
「花を愛でるには、けっして満開のころに行ってはいけない」という詩句に押されて決断したこの観梅旅行は、満月の時期ではあるものの、花は咲き初めで見ごろではない予定でした。しかるに、あに図らんや、月ケ瀬に到着してみると、花はすでに満開です。
ところが期待した満月が雲で見えず、仕方なく酒盛りを始めますが、下男が担いできた酒樽を途中でひっくり返してしまったために、清酒を楽しむ代わりに、村のまずい酒を飲むはめになりました。しかし、そんな不運の後に、まさかの展開で雲が晴れて月が顔を出します。一同は歓喜して大騒ぎで飛び出していきます。そんな子供じみた行動がコミカルに描かれています。
そして「記三」の終わりの方には、「影盡橫斜」と『山園小梅』詩の語が使用されています。当時の読書界によく知られたこの詩を踏まえていることをさりげなくアピールして、読者をシノワズリの世界に引き込むのです。
月ヶ瀬梅渓
「記三」の最後の段に、「ひとたび中流に棹(さお)ささば、山水倶(とも)に動かん」とあります。この文は、「もし中流(川の中ほど)まで舟でこぎ出したら、山や川はいっしょに動き出すだろう」という「作者の楽しい想像」(大室幹雄著『月瀬幻影』116ページ)と解釈できますが、『月瀨記勝』乾巻の巻頭にある図版(風景図6)では、月夜の舟遊びが描かれています。図版ではほかにも雨の図(風景図7)など「梅渓遊記」にない状況が描かれたものもあるため、図版は実景の模写というより、月ヶ瀬の雰囲気を伝えるためのイメージ図の要素が濃いものだと言えそうです。
風景図6
[題字]清灘棹月
[訓読]清灘月に棹す
[現代語訳]清らかな流れに月が映る中を舟で行く。
2019年5月2日公開。
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