日本漢文の世界

 

月ヶ瀬梅渓(月瀬記勝)








梅谿遊記九解説

月ヶ瀬梅渓 日本漢文の世界 kambun.jp
月ヶ瀬橋

『月瀨記勝』乾巻の図版 日本漢文の世界 kambun.jp
風景図1

[題字]巖秀谷邃
[訓読](いは)(ひい)(たに)(ふか)
[現代語訳]岩は高く、谷は深い。

 ここでは月ヶ瀬からの帰りに道に迷ったエピソードと梅谿遊記述作の経緯を述べて、梅谿遊記の結びとしています。
 拙堂先生らは、月ヶ瀬から伊賀上野まで歩いて帰る途中、道に迷ってしまい、伊賀上野に着いたのは午後九時頃になってしまいました。一行の人たちは、道案内を務めていた服部文稼に文句を言いますが、拙堂先生は「これもこの旅行についてまわる奇異の名残」と笑いとばします。
 拙堂先生らの旅行は詩文や画といった成果を伴う風流旅行であり、拙堂先生はこの旅行により律詩十首と梅渓遊記九篇を作ります。律詩十首は現地で作って持ち帰り、梅渓遊記九篇は帰ってから作ったのです。当時の風流人は携帯用の筆を持っていて、現地で詩文を作り、「奚囊」(けいのう)と称する袋に入れて持ち帰りました。その他、皆が作った絵などを稛載(こんさい)、すなわち車に積んで持ち帰ったと言っています。旅行の真の目的は、こうした芸術的成果を得ることにあったのです。
 この文によれば、拙堂先生は当初「梅渓遊記」の各篇に対して宮崎子達らに一つずつ風景図を作らせ、各篇の左に掲載するという構成を考えていたことが分かります。しかし、実際に『月瀨記勝』版本に掲載された風景図は八葉で、それらは乾巻のはじめにまとめて載せられ、遊記ごとに分けて掲載したのではありません。その理由は、これらの風景図が特定の場所を指示する要素に欠ける、ほとんどイメージ図に近いものであることにもよるのだと思われます。これは当サイトで先に紹介した鎌田梁洲の『観瀑図誌』とは大いに異なるところです。『月瀨記勝』は『観瀑図誌』の即物的な記述と違い、より幻想的・詩的なシノワズリの作法に従った記述をしているので、挿図についても実際の風景に即したものであるよりも、イメージを先行させたものになったのだと思われます。
 しかし、当時の知識人にはシノワズリの手法は非常に有効でした。『月瀨記勝』はたちまち多くの読者を得て、知識人たちは月ヶ瀬の地に憧れを抱き、梅の季節になると月ヶ瀬には『月瀨記勝』を片手に風流な観光客が来るようになったのです。拙堂先生は「月ヶ瀬梅渓を宣伝したい」との意欲を文末に書いていますが、見事にその狙いは当たりました。拙堂先生こそは、月ヶ瀬観光化の最大功労者なのです。

 

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月ヶ瀬梅渓


2019年5月2日公開。

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