日本漢文の世界

 

月ヶ瀬梅渓(月瀬記勝)








梅溪十律解説

月ヶ瀬梅渓 日本漢文の世界 kambun.jp
月ヶ瀬梅渓

 十首の七言律詩「梅渓十律」は、拙堂先生が月ヶ瀬の現地で草して持ち帰ったものが原案となっています。「梅渓遊記」と同じく、頼山陽の添削が入って今の形になったものです。頼山陽の添削は、「梅渓遊記」に比べると控えめで、拙堂先生の原作を尊重しているように見えます。
 律詩は4つの対句から成る8行詩であり、対句の作成にはかなりの技巧が必要で、4行詩の絶句に比べると作成はすこぶる困難です。頼山陽は「七律は作り難し。僕の如きは此の中の一首を成さんと欲すれば、またすべからく数日呻吟すべし。[中略]僕初め律を以て遊を記するは、体を選ぶに宜しきを失す、何ぞ絶句を以てせざるやと疑う。既にして之を閲すれば、[中略]詠物様子に堕せざるは、これ最も難きと為すのみ」(七言律詩は作るのが難しく、僕などはこのうち一首を作ろうとしても数日は苦吟するだろう。[中略]律詩で観梅を記するのは詩の形式の選択あやまりで、なぜ絶句を用いないのかと疑ったが、拙堂の律詩を見ると、[中略]たんなる写生詩に堕せず、もっとも困難な仕事をなしとげている。)と評しているので、頼山陽は拙堂先生の十律をなかなかの出来栄えと評価していたことが分かります。
 拙堂先生は、シノワズリに凝った「梅渓遊記」の締めくくりとして、こちらも典拠満載の難解な「梅渓十律」を提示して、『月瀨記勝』をより風流な作品に仕上げたと言えましょう。
 しかし、「梅渓十律」は「梅渓遊記」に附属している詩だからこそ意味があるのであり、もし「梅渓遊記」がなく「梅渓十律」だけが単独の詩作品として提示されていたとすると、それほどの魅力は感じられません。このことは拙堂先生の友人たちも感じていたようで、岡本花亭は無遠慮にも「十律は観るべからざるに非ず。然れども之を九記絶勝の後に附すれば、すこぶる色を減ずるを覚ゆ。刪割して特に其の佳なる者を存せば如何。」(十首の律詩は善くないわけではないが、傑作の「梅渓遊記」の後にくっつけたのでは、色あせてしまう。十首のうち傑作だけ残してあとは削ったほうがよいのではないか)と評しています。私も全く同感です。
 残念ながら「梅渓十律」は拙堂先生の渾身の注力にもかかわらず、それほど有名にはならず、江戸漢詩のアンソロジーに採られているのを見たこともありません。「梅渓遊記」はかくも有名ですが、「梅渓十律」はかくも無名なのです。
 しかしながら、「梅渓十律」においてもシノワズリの作法は十二分に発揮されており、典拠をふんだんに使って、当時の知識人が楽しめる作品に仕上げてあることは事実です。

 最後に、第六首の「十分の春」の典拠である方岳の『雪梅』詩を引用解説しておきましょう。これは梅の詩として非常に有名ですが、「梅渓遊記」には引用がなかったものです。

雪梅
有梅無雪不精神
有雪無詩俗了人
日暮詩成天又雪
與梅並作十分春

雪梅
梅有り雪無きは精神ならず
雪有り詩無きは人を俗了す
日暮詩成りて天又雪
梅と並(あわ)せて十分の春を作す

雪中の梅
梅があっても雪がなければ情趣がない。
雪があっても詩を作れなければ、人間が俗っぽくなってしまう。
夕方詩が出来ると、天候も雪になり、
梅・雪・詩の三つあわせて、十分に初春の気分を出すことができた。

以下、十律の内容について、表にまとめました。


内容 引用される中国の地名や詩文(シノワズリ)
第一首 月ヶ瀬へのあこがれ、夢にまで見た月ヶ瀬にやってきた喜びを歌います。山の頂上に老僧の家(真福寺?)があり、梅の香りの中から粗末な門へ入っていきます。
第二首 月ヶ瀬を桃源郷・朱陳村になぞらえています。ところが、月ヶ瀬の住人は桃源郷の住人が植えていた桃を俗なものだとして、桃源郷の先人には学ばず、自分たちは梅を植えています。 陶淵明の『桃花源記』、白楽天の『朱陳村』
第三首 月ヶ瀬は中国の東閣(杜甫の詩にも登場する梅の名所)や西湖(宋の詩人林逋が隠居した島「孤山」があるところ)に勝るとし、玄宗皇帝の宰相・宋広平の鉄心をも、たちまちになごませるとしています。 東閣、西湖、皮日休(鹿門子)の『桃花賦』、宋広平の『梅花賦』、蘇東坡の『牡丹記叙』
第四首 月ヶ瀬の西の果てまで観梅に歩き続けて夜になり、林逋の『山園小梅』詩を引いて、夜の梅花の美しさをたたえています。 林逋の『山園小梅』詩
第五首 参(しん=オリオン座の三ツ星)が頭上にあるのを見て、夜遅いのに気付いたとあります。また、画題としても有名な、羅浮山の梅の精である美人と一夜を明かすと言っています。 隋の趙師雄が羅浮山で梅の精の美人と出会った故事(柳宗元の『龍城録』「趙師雄醉憩梅花下」等)
第六首 雪・梅・詩のそろった完璧な春(韓愈の『春雪間早梅』詩、宋の方岳の『雪梅』詩)に、梅の名所・庾嶺(ゆれい=月ヶ瀬を喩える)で観梅し、王徽之が興にまかせて雪の夜に友人を尋ねてさかのぼった剡谿(せんけい=五月川を喩える)で舟に乗ります。 韓愈の『春雪間早梅』詩、方岳の『雪梅』詩、庾嶺(ゆれい)、剡谿(せんけい)
第七首 この詩も舟での観梅を詠み、五月川を中国の武夷山九曲溪に喩えています。九曲溪は地形が非常に美しく、ユネスコの世界遺産にも登録されています。 武夷山九曲溪
第八首 この詩は、雪景色です。兜羅綿(とろめん)とは綿のことで、綿のような雪であたりは真っ白。太陽が沈むと、その白さが際立ってきます。
第九首 この詩では、今回の観梅によって新たな絵画作品や詩文が作られたことを述べています。
第十首 いよいよ月ヶ瀬を去るにあたり、名残惜しい気持ちを詠んでいます。月ヶ瀬から去るときは、仙人の張果がロバに後ろ向きに乗って後ろを見ながら歩んでいたように、後ろ髪を引かれながら去っていくと言っています。 『旧唐書』「方伎列伝」等。

 『月瀬記勝』の楽しい雰囲気を、少しでも味わっていただけましたでしょうか。楽しい気分になられた方は、次の梅の季節に、いずれの梅林でもよいので、ぜひ観梅に行ってきていただきたいと思います。

月ヶ瀬梅渓 日本漢文の世界 kambun.jp
月ヶ瀬梅渓


2019年5月2日公開。

ホーム > 名勝の漢文 > 月ヶ瀬梅渓(月瀬記勝) > 梅溪十律解説

ホーム > 名勝の漢文 > 月ヶ瀬梅渓(月瀬記勝) > 梅溪十律解説