月ヶ瀬橋
風景図7
[題字]雲濕雨香
[訓読]雲濕り雨香る
[現代語訳]雲が水気を帯びて、梅の香の雨が降る。
ここでは月ヶ瀬村の経済について述べています。
梅の実から作る烏梅(うばい)による収入はいかほどなのでしょうか。当時の月ヶ瀬では十の村で中熟(中くらいの出来の梅の実)が1,400駄、上熟(上出来の梅の実)が2,000駄、合計3,400駄できたとこのこと。1駄は馬1頭に乗せられる積み荷で、体積は1斛5斗(約270リットル)、重さは200斤(訳120キログラム)と解説されています。この1駄の値段が銀90~100匁(「匁」は「もんめ」。1匁は3.75グラム)であったとのこと。
現在の銀価格は1グラム70円程度なので、現在の銀レートで換算すれば、1駄は銀100匁なので、約2万6千円。全村の収入3,400駄は9千万円弱ということになります。
コメの値段(消費者米価)で換算すると、当時のコメ1石の値段は銀120匁前後でした。現在、「消費者米価」という指標はなくなってしまいましたが、仮にコメの値段を10キログラム5千円程度と仮定すると、1石は150キログラムなので7万5千円程度ということになります。コメ1石が銀120匁なので、銀100匁(梅1駄)は米価換算で約6万3千円となります。コメで換算すれば全村の収入3,400駄は2億1,400万円です。これはコメ10キログラムを5千円程度とした場合ですが、3千円程度とした場合は全村の収入は1億3千万円程度となります。
いずれにしても、拙堂先生の記録から換算した全村の収入は、せいぜい1~2億円程度にしかなりません。
当時の村の人口規模がどの程度だったかは分かりませんが、現在の月ヶ瀬地区の人口約2千人から見れば、この換算金額は驚くほど少ないように見えます。しかし、当時の農村では自給自足が当たり前で、現代のように現金収入によって生活しているのではないので、現代の感覚で考えてはいけないかもしれません。とまれ米作のできない山村にとって、梅栽培は重要な収入源だったことは間違いありません。
梅谿遊記にこのような経済記事が載せられているのは興味深いものがあります。拙堂先生が経済を重視していた証拠と言えるでしょう。
月ヶ瀬梅渓
2019年5月2日公開。
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