現在の月ヶ瀬梅渓は、高山ダムのダム湖となって川幅が広くなり、拙堂先生の頃とは様子が変わっています。
この段では一転して舟での花見となります。舟での花見というと、陶淵明の『桃花源記』を思い浮かべるのがシノワズリの作法です。そこで、この段では『桃花源記』が論じられることになるのです。
風景図3
[題字]竹陰待渡
[訓読]竹陰に渡を待つ
[現代語訳]竹藪にて渡し舟を待つ。
『桃花源記』の内容を要約します。
武陵というところに住む漁師があるとき道に迷い、舟で谷沿いに行くうちに桃の花が咲き乱れる林を見つけます。桃以外の木がないその林を抜けたところにある山に人が入れるくらいの小さな穴があったので、舟をすてて穴に入ってみると、中には広くて豊かな村があり、人々が生活を楽しんでいました。その人たちは祖先が秦の横暴を避けてその場所に隠れ、その後もそこで生活し続けていたため、秦の滅亡後、漢や三国時代があったことも知らず、現在が晋の世ということも知りませんでした。漁師はその村から辞し帰るときに、ところどころ目印をつけておきましたが、二度とその場所に行くことはできませんでした。
花の咲き乱れる中を舟で行くのは、桃源郷に迷い込むイメージなのです。しかし、花が桃の花では俗すぎる、と拙堂先生は言います。花はやはり梅でなければ「仙境」という感じはでない、というのです。だから、陶淵明の『桃花源記』は徒労の作だとまで言ってのけています。
しかしながら、大室幹雄氏は桃源郷が「仙境」もしくは「仙源」だとする当時の通念は、実は誤りであったと指摘しています。
陶淵明の書き遺した桃花源は不死の仙人たちの悠長な歓楽郷ではなかった。それは、(中略)皇帝の権力の中枢が壊廃し、それを支持し施行して現実化する官僚制度と軍事組織も分裂頽廃した三世紀以降の中国社会で、戦乱、破壊、殺人、疫病、天災、飢餓、食人(カニバリズム)と人間狩りが跳梁する荒廃に陥った時代に、人びとが平地の都市や村を放棄して、集団で山地に逃げ隠れ、相互抗争をくりかえしながら、生きのびるために塢(う)とか塢堡(うほ)と呼ばれた何らかの共同体(ゲマインデ)を形成するべく試行していた現実を鋭く理解していた詩人が、彼の社会の歴史と神話と哲学の元型的なイメージを、自身の詩的な想像力のうちに構成して明確に書き上げた無何有の郷(ウトーピッシュ)、きわめて政治的哲学的かつ詩的な、だからすぐれて現実的な共同体(コミューン)なのだった。(大室幹雄著『月瀬幻影』中公叢書 119-120ページ)拙堂先生は、当時の通念に従い、桃源郷を「仙境」と見なして論を張っているわけです。『桃花源記』を普通に読めばそのような解釈になるのは自然なことであり、私はそれでよいと思っています。
月ヶ瀬梅渓 桃香野附近
この段では、尾山八谷(おやま・やたに)の名称が紹介されています。1敞谷(ほうらだに)、2鹿飛(しかとび)、3搜窪(さがしくぼ)、4祝谷(いわいだに)、5菖蒲谷(しょうぶたに)、6杉谷(すぎたに)、7一目千本(ひとめせんぼん)、8大谷(おおたに)の8つの谷です。現在は「帆浦谷」と表記される「ほうら谷」に「敞谷」の字が当てられているのに注目しています。「敞」は「高くて見晴らしがよい」という意味を持つ字であり、現在でも帆浦谷は尾山第一の絶景スポットです。また、3搜窪(さがしくぼ)は天神森(天神梅林)の崖下とのことで、その上に「天狗岩」があると書かれていますが、現在はそのような岩はなく、嘉永・安政の地震で一部もしくは全部が崩壊したのではないかと推測されます。(この項は月ヶ瀬観光協会の御教示によります。)
2019年5月2日公開。
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