[訓読]
婦も亦た愀然として泣く。媼少焉して乃ち涙を攬ふて曰く、「恭人請ふ之を恕せよ。妾は耄耋して愚に歸す。呵呵。」と。且つ襟を正しうして曰く、「恭人貞淑。克く萬酸に耐へて、以て今日に至る。郎君は温厚正實にして、氣節霜を凌ぐの概有り。恭人今自り從良の德を修むれば、蓋し樂事至らん。果して此の如ければ、媼も亦た忭賀に堪へざる也。」と。時に亭婢郎君の還るを報ず。聲破鐘の如し。田舎の婦、往往大聲人を驚かす。婦媼之を聞きて唖然たり。
愀然・・・悲しみにたえない様子。
恕・・・・ゆるす。寛大に取り扱うこと。
耄耋・・・おいぼれ。「耄」とは90歳、「耋」とは70歳のことをいう。
呵呵・・・笑い声を写した語。この漢訳では、会話文に写された笑い声「おほほほ」をほとんど閑却しているが、自嘲的な笑いの場合のみ「呵呵」と訳している。(漢語「呵呵」には自嘲の意味はないが、わが国では自嘲の文脈で用いられる。)
貞淑・・・女性が節操高く、賢くてしとやかであること。
概・・・・品格。度量。「・・・の概がある」は、その人を度量を称える言い方として、日本語でも定着していた。(現在では、あまり使用しない。)
從良・・・ここでは、婦人としての夫に仕える勤めを果たすこと。しかし、中国での用例では「従良」とは、奴隷が自由の身になること、もしくは妓女の身請けのこと。浪子も結婚により一種の奴隷的生活から解放されたわけだが、ここではそういう意味で用いられているのではなさそうだ。
忭賀・・・よろこび、祝福すること。
亭婢・・・旅館の女中という意味の造語。
破鐘・・・われがね。ひびの入った鐘のこと。日本語で「われがね声」といえば、われがねを鳴らしたような太い大きな声のことだが、漢語の用例はない。
唖然・・・あっけにとられる様子。
※原作の「女中の聲階段の口に響きぬ。」という一行を、女中の声が破鐘のようだとか、田舎の女は、ときどきびっくりするような大声を出すとか、原文にない説明をつけている。おそらく、訳者に苦い経験があり、つい筆が滑ったものか。
2009年10月4日公開。