姓・号 | 杉原 夷山(すぎはら いざん) |
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生没年(享年) | 明治10年(1877)- 昭和19年(1944) (68歳) |
諱(いみな) | 幸次郎(こうじろう) |
字(あざな) | |
通称 | 幸(こう) |
雅号 | 三省(さんせい)、夷山(いざん)、瑞翁(ずいおう) |
謚(おくりな) | |
出身地 | 福島県田島町(現・福島県南会津町) |
師の名 | 吉原勝吉、佐原盛純 |
官職等 | |
代表的著作 |
高野長英言行録(内外出版協会) |
伝記: 杉原夷山の伝記については、なかなか知ることができませんでしたが、福島県の旧田島町(現・南会津町)の出身ということが分かり、南会津町に照会いたしましたところ、同町教育委員会生涯学習課から『田島町史10巻 人物編』109~110ページのコピーを送付していただきました。厚くお礼申し上げるとともに、以下に転載させていただきます。 職業:漢学者・美術鑑定家 出身地:田島町西町 没年月日:昭和十九年二月八日 六十八才 雅号等:名・幸次郎、通称幸、号初め三省、後夷山、晩年瑞翁、その居を黙成書院という。 祖先は高田永井野の出身で、西町西清(さいせい)より分家し、薩摩屋と号して商家を営む杉原清次郎の二男として出生した。幼少より文才に優れ、十二歳で少年文芸雑誌『穎才新誌』に投稿の詩文が当選している。 漢学は初め西町松葉屋に仮寓する吉原勝吉に学び、其後は専ら福島民報紙上に寄稿して入選を果した。家業の提燈屋を手伝う傍ら明治三十一年若干二十一才で処女作『南山義民 小栗山喜四郎』を出版。当時西町会陽会館前の民衆掲示板に寄せた時事論説は彼の独壇場であったという。 向学心に燃える彼は若松の佐原盛純に学び、遂に上京して竹内東仙、山田貢村、高畑翠石、日下勺水らと交遊して済生学舎に学んで、神田に私塾を開き門弟を育成した。この頃陽明学に傾倒して号を夷山と改め、東敬治主宰の雑誌の創刊の「安政の大獄と春日潜庵」を皮切りに毎号詩文を寄せ、同派王学雑誌にも執筆した。其後陽明学のバイブル伝習録講義を発表、名士の集まる金鶏学院で陽明学を講じて独特の存在となった。 昭和初年頃、彼独特の奇行癖が災いして北海道に渡ることとなり、石狩栗山町から札幌に移り札幌の中学教師を勤め、木下成太郎・塩沢建・越山友行等と学会館を興して漢学を教授し、漢詩集『北海詩談』『北門芸苑小史』をまとめ、アイヌ関係資料を蒐集したが、没後遺愛の骨董品やアイヌ資料は北海道に渡ったという。昭和十年春、一時帰郷して若年より計画していた南山史談会を興し「南山叢書」と題し多くの郷土史料を集成した。「定女伝」はこの時の作である。 再度の上京後は、下谷鶯谷に鶯渓舎を開いて漢学を講じた。門下に加藤玉淵・国岡竹畦・橋本碩台・秋山某があった。昭和十四年木下成太郎と共に支那に遊び、呉佩孚と親交が厚かった。戦禍が激しくなると郷里の佐藤耕四郎の勧めで田島に疎開、兄の急死により家を継ぐが、遂に病没し、徳昌寺に葬られた。 昭和十六年四月、田島を訪れた土井晩翠は「春浅き田島の郷に君にまみゆ義人の墓を誌しし君に」の歌を夷山に贈っている。没後一四年目の昭和三十二年三月、地元有志によって顕彰碑が建てられた。 彼の著述には古美術関係の『日本書画落款印譜』・『支那画家人名辞典』等の大著と、幕末維新の人物伝など三二種の刊本の他、月刊誌『書画骨董』に寄せた多数の論考、南山義民や馬場翠園などの碑文、西町義勇団に寄せた「尚歯会序」や友人への序文など多少国粋主義的傾向があるものの、優れたものが多い。 稿本には「田島雑記」・「炉辺聞話(ろばたのむだばなし)」・「田島年中行事」・「南山孝子伝」・「南山俳諧史稿」・「南山史談二」・「南山年代記」・「高倉以仁王考・西木戸塚考」・「会津名家落款譜」等があった。墨画も得意で、漢詩の讃のある墨竹は「夷山の竹」と称せられ、地元以外に東京・札幌で頒布会・書画鑑定会が催された。 彼の蔵書癖はつとに有名で、これにまつわる逸話も残されているが、没後田島中学校に寄贈された数千冊と、その後寄贈されたもの、散逸したものを含めると膨大な量であり、これが彼の博識を支えていたのである。 参考文献=田島祇園祭と史蹟(会津史談会誌34)、広報たじま34・191・193、杉原夷山先生之碑、日本書画落款印譜集成、田島町史3 | 2009年9月6日公開。2017年2月12日一部修正。 |