日本漢文の世界

 

赤目四十八滝(観瀑図誌)








赤目瀑前記現代語訳

泉声之山 貫名菘翁書 日本漢文の世界 kambun.jp
泉の声のする山 貫名菘翁が題する

 赤目の山は、名張の南西、2里(8キロ)ほどほどのところにある。高さは3丈(90メートル)ほどで、木がうっそうと茂り、奇怪な岩がごろごろしている。そこに川が流れて滝となり、滝の数は48にも及んでいる。最もすばらしい滝は、行者滝、千手(せんじゅ)滝、不動滝、霊蛇(れいじゃ)滝、布引滝、竜が壺、すがり藤、柿窪(かきくぼ)、横ぶち、荷担(にない)滝、琵琶滝、岩窟(いわや)滝である。中でも、不動滝、布引滝、荷担滝、琵琶滝は大きな滝である。これら多くの滝の総称を「赤目の滝」というのである。これは、滝の属する山を赤目の山ということから名づけられたものである。
 言い伝えによれば、役の小角(えんのおずぬ)がこの山を道場として開いたとき、不動明王が赤目の牛に乗って現れたという。それゆえに、この山に赤目という名が付いた。「千手滝」とか「不動滝」とかいう名前も、みな仏教家の命名であり、土地の人が呼び慣らわしているにすぎない。そもそも48という数も、アミダ仏の本願の数になぞらえたものであり、たくさんあることを表したにすぎない。毎年7月になると、近くの住民たちは「滝まいり」と称して、滝の見物に行っている。
 私は若い頃から自然に対して非常な愛着があり、また家が赤目山に近かったために、しばしば滝見物に訪れていた。天保2年(1831年)の秋に、初めて紀行文を作って滝見物の顛末を書き綴ったが、このときの文章は、行者滝から始まり滝が壺で終わっていた。これを「前澗(ぜんかん)」と称している。そして今、万延元年(1860年)の秋になってから、流れの源から下流へと下り、紀行文の続きを書き足したが、この続きの部分は岩窟(いわや)滝から始まり、すがり藤で終わっていた。この続きを「後澗(ごかん)」と称している。
 私は、若い頃からこの赤目の山水を愛し、機会あらば世間に広く紹介したいと念願し続けてきた。その機会がついに到来したので、滝の図や表題の揮毫を周りの立派な方方にお願いし、私の作った紀行文をそれらの後に載せた。
 立派な紀行文を書いた昔の人は、「もしも山や川に精霊が宿っているならば、悠遠の時代を越えて、わが奇観をよく理解してくれる者が現れたものだ、と驚くに違いない」と書いている。私の文章は赤目の山水を十分に顕揚しえてはいないけれども、赤目山の精霊は、私のことを知己だと認めてくれるような気がしてならない。


2009年3月28日公開。

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