姓・号 | 鎌田 梁洲(かまた りょうしゅう) |
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生没年(享年) | 文化10年(1813)- 明治8年(1875) (63歳) |
諱(いみな) | 定祥(さだよし)、のち政挙(まさこと)と改めた。 |
字(あざな) | 翔甫(しょうほ) |
通称 | 健兵衛(けんべえ)、外記(げき)、庸人(ようじん) |
雅号 | 梁洲(りょうしゅう)、随山(ずいざん)、春楓(俳号) |
謚(おくりな) | |
出身地 | 伊賀国名張(三重県名張市) |
師の名 | 井上貞頭、小谷巣松 |
官職等 | (維新前)名張籐堂藩家老職兼儒官 (維新後)津藩漢学一等教師兼国学教師補、崇広堂講官、思斎舎教頭、上野学館典籍 |
代表的著作 | 観瀑図誌(昭和42年に名張青年会議所が復刻) 遊香落澗記(昭和12年に浅野儀史氏により刊行され、天覧にも供されたというが未見。昭和42年に名張青年会議所が『観瀑図誌』付録に写本を写真版にて掲載) 周易纂注 周易泰卦講案(津藩主・藤堂高猷へ進講) (浅野儀史氏により『梁洲会誌』第一輯~第三輯に収録) 尚書纂注 読左随録 毛詩纂語 童子訓(『梁洲会誌』第一輯所収) 赤目滝(謡曲) 干枕(たてまくら) 一名 伊賀越復仇(謡曲) 発句選列(俳諧) 衝口俳句録(俳諧) 掃塵集(俳諧)(『梁洲会誌』第一輯・第二輯所収) |
伝記: 名張籐堂藩の家老の家柄である、鎌田定好の三男として名張に生まれた。 幼時より学を好み、十歳より地元の学者・井上貞頭のもとで漢学の手ほどきを受けた。優秀さは群を抜いており、驚いた主君・藤堂長教は世子・長徳の小姓に抜擢した。 十五歳のとき、上野の儒官・小谷巣松の門に入り、七年間修学した。名張に帰ると、二十二歳で主君・藤堂長徳より儒者見習を仰せつけられ、天保七年(1836年)に父・定好が没すると儒者番頭となった。 天保14年(1843年)、藤堂家の本藩である津藩主・藤堂高猷が上野に下向したとき、召されて周易を進講した。高猷は感服して講案の提出を命じ、蔦章の礼服を下賜した。これは前例なき栄誉だった。 嘉永6年(1853年)、儒官を兼職のまま家老職に任ぜられた。家老としては、児童教育に力を入れ、安政5年(1858年)に訓蒙寮を開いた。軍政改革にも乗り出し、自ら足軽隊を訓練した。武術は槍術師範であった父の後を継ぎ、新式の槍を工夫するなど、研鑽を怠らなかった。 文久3年(1863年)、大和十津川で、天誅組の乱が起きると、兵を分遣して自ら巡視・警戒した。 明治元年(1868年)、津藩、名張藩は官軍に属したが、幕府軍の残党が領内に入ってくる恐れがあったため、軍を督励して守りを固めた。 明治2年(1869年)、版籍奉還により津藩知事となった旧津藩主・藤堂高猷により津藩漢学一等教師兼国学教師補、崇広堂講官、思斎舎教頭、上野学館典籍に任命された。 翼明治3年(1870年)、名張の郡民の一揆に際しては、官民の調停役として奔走し、事なきを得てた。 明治5年(1872年)、廃藩置県により津藩が廃止となり、上野学館も閉鎖されると、家族とともに名張に帰った。その後、地元の医学研究界に招かれて講師を務めた。病理・薬剤の事を細大もらさず暗記していたため、受講した医師たちはその博識に感服したという。 書法にも通じ、この方面でも一家を成した。 謡曲や俳諧にも興味を有し、その方面でも著作がある。 山水の奇勝を愛し、ほど近くの赤目・香落には毎年のように出かけた。これほどの奇勝が世に知られないことを惜しみ、天保2年(1831年)に赤目前澗記をつくり、その後、30年を経て万延元年(1860年)に至って後澗記を作り、更に推敲して『観瀑図誌』を完成させた。また、安政4年(1857年)には『遊香落澗記』を完成させた。 最大業績は、『観瀑図誌』を著して赤目四十八滝を世に紹介したことである。『観瀑図誌』は、門人たちが組織した「淡交社」により版木の作成が行われた。初版は元治元年(1864)だが、明治16年(1883年)にも再版されている。香落渓(こうちだに)を紹介した『遊香落澗記』は出版されなかったために、知られていない。 明治8年(1875年)4月1日没。享年63。 | 2008年12月30日公開。 |
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