日本漢文の世界

 

赤目四十八滝(観瀑図誌)



3.赤目四十八滝の現地踏査

 私たちは、平成20年11月13日、赤目四十八滝をおとずれました。午前11過ぎに現地入りし、午後3時半ころに下山するまで、ゆっくりと滝の見物をすることができました。
 赤目四十八滝は、下流から上流に向かって遊歩道が整備されており、滝川沿いにある滝をすべて(大日滝以外)見ることができるようになっています。
※この遊歩道の行程については、近鉄が作成している「てくてくマップ」が分かりやすいです。

 今回の踏査は、『観瀑図誌』を片手に、梁洲先生の紹介した視点で赤目四十八滝を見物することを目的としていました。ここで、私たちは意外な発見をしました。
 滝は小さな「行者滝」から始まりますが、梁洲先生の『観瀑図誌』では、「行者滝」の次は、「千手滝」となっているのに、現地では「霊蛇滝」と表示されていました。さらに、「不動滝」の次にあると梁洲先生が書いている「霊蛇滝」は、現地では「千手滝」という名前になっていたのです。つまり、「不動滝」の前後にある「千手滝」と「霊蛇滝」の名称が、鎌田梁洲先生の時代と現代とでは逆になっているのです。

霊蛇滝(現在の名は千手滝) 日本漢文の世界 kambun.jp
洞窟が「霊蛇滝」の傍らにあると観瀑図誌に書かれています。
この滝は現在、千手滝と呼ばれています。

 これは私たちが間違えたわけではありません。梁洲先生は、「霊蛇滝」の傍らには、昔・空海が護摩を焚いたといわれる洞窟があると書いていますが、今その洞窟はまさに「千手滝」の傍らにあるのです。現在の「千手滝」が、昔の「霊蛇滝」であることは明らかです。
 この事実について今まで指摘された形跡がないのはなぜでしょうか?
 これは、遊歩道の整備が比較的最近であるため、漢文の『観瀑図誌』を読んだ上で現地を訪れる人がほとんどいなかったことが原因であると思われます。漢文が生きていた明治時代に遊歩道の整備が出来ていたならば、滝の名称が入れ替わることもなかっただろうと考えられるのです。

 遊歩道の整備について、何か資料はないかと、名張市図書館にお聞きしたところ、『名張市史』第十二編 観光(市史989ページ~993ページ)に次のような記事があると御教示いただきました。以下に引用させていただきます。(2017/7/23追記)

 赤目四十八滝が観光地として一般客の足をひくようになったのは明治の後半である。それまでは宗教の聖地として仏道行法者だけが入山するにすぎなかった。地元の人たちも"滝見物"といわず、"滝参り"といって赤目滝を信仰の対象としてきた。
 役(えん)の行者がここに来て滝で修法中、不動明王が赤目の牛に乗って顕れ、その霊示によって延寿院を開基したという、いわゆる行者伝説は古く平安時代の文献にあらわれている。全国の名のある修験道霊地はどことも行者伝説がまつわっているが、赤目滝に古くから行者伝説が結びつけられたのは、古く平安時代のむかし、ここが修験道の行場として開かれた史実を物語っている。原始のままのこの渓谷は修験者の行法にふさわしい幽邃の秘境であったろう。延寿院の前身青黄竜寺が創建されたのは保安3年(1122)である。また渓谷内にそびえる妙法山の山頂は平安後期から鎌倉・室町時代にかけて納経の霊地として遠近から信仰者を集めた。江戸時代になり延寿院は藩主藤堂家(津本藩)の祈願所となった。
 この赤目滝を宗教からはなし、はじめて自然の景勝として瞠目したのは幕末名張の儒者鎌田梨洲である。かれは前後二回にわたりこの渓谷を踏破して『観瀑図誌』を著わした。赤目滝の景勝をひろく世に紹介したものとしてこれが最初である。しかし観光地としての開発はこれよりも二・三十年おくれ、明治31年の赤目保勝会の発足あたりからぼつぼつ初まる。
 赤目保勝会は明治31年5月、地元の有力者玉置熊吉・藤本若松らが中心となってつくられた。その趣意書にいう。
伊賀・大和の界に一川あり。その傍らに勝区多し。月瀬はその下流にあり、すでに梅花をもって世に顕る(月瀬保勝会ありてこれを保護す)。その上流に赤目四十八滝あり。往昔名張の鎌田梁洲『観瀑図誌」二巻を著わし、斎藤拙堂これに題し、土井贅牙翁これに序し、広瀬旭荘先生また毎瀑詩を賦してこれに題し、みな賞讃して天下無双となす。而してその地は天台宗延寿院境内に属し、延寿院はもと藤堂家の祈願所なるをもって藤堂家のこれを保護する甚だ至れりとなす。故に当時三十丈の赤目山椒木蓊蔚四十八の大瀑その間に懸り、実に無双の壮観となす。
 これを如何せん、時世の変移藤堂家の保護を離れしより以来三十年、ただに自然の荒廃に任すのみならず、往々樹木を伐採し、泉源を涸渇するの憂あり。今に及びて保護の道を講ぜずんば行々まさにその壮観をして絶滅に帰せしめんとす。まことに歎惜すべきなり。よって新たに赤目保勝会なるものを設け、左の規則により月瀬と同じくこれを保護し、これを世に顕し、銕路自在の今日、もって中外入の遊覧に供せんとす。請う大方の君子、本会設立の主意を諒せられ、続々賛成あらんことを。
保勝会の事業。一、赤目四十八滝保護の事。一、樹木栽培水源涵養の事。一、道路開修の事。一、橋梁架設の事。一、旅館及び茶亭建設の事。一、赤目瀑にかかる図書出版の事。

 開発にはまず道路の改修が先決であった。明治36年に、郡長上野禄二郎・滝川村長藤本若松・地元玉置熊吉・服部保太郎らが奔走し、黄竜橋から滝入口落(おとし)橋まで左岸ぞいについていた細道を右岸ぞいの現在の道路につけかえた。当時としては五千五百万円の巨費を投じた。同時に観瀑道路も改修した。梁洲の『観瀑図誌』によれば、不動滝から竜が壷までのぼることができず、彼は布引滝をみるため上流から下ったと書いている。つぎの新聞記事にもみられるように、赤目渓谷を踏破するには明治末葉でもなお剛力(ごうりき)を必要とした。こうした開発初期の模様を明治44年8月22日の『伊賀新聞』は「赤目観瀑三千人、水雲閣と保勝会」という見出しでつぎのように報道している。
名張町を去る一里、滝川村に赤目四十八滝と称する勝地あり。文久年間鎌田梁洲(目下県属たる鎌田千代之助の祖父)が『観曝図誌』を著して初めて天下に紹介したるものなるが瀑の麓に延寿院と称する一寺院あり。近年観瀑の雅客杖を曳くもの歳々増加し、数年前保勝会なるものを組織し雅客の便を図るに努めたる結果、三千人の遊客を迎うるに至りたるにより、更に同村長坂の有力者相謀って一楼閣を作り水雲閣と名付け、茲(ここ)に剛力を置き、登山者の案内人とし従来殆んど休憩所すらなかりしものが水雲閣にて宿泊することを得、酒ビール缶詰等の備えもあり、本年七月末よりの観瀑者既に二千人以上に達し、猶続々杖を曳くものあり。もっとも壮観なるは布引・不動・行者・千珠・大日・霊蛇・竜ケ壷・荷担等にて剛力一人十五銭なり。但し山険阻にして樹断崖に懸り岩をねじ水を渡らざるべからざるを以て一人にては頗る危険なり。兎も角天下の勝と云うも過言にあらず。且つ隣村箕曲には鹿落の絶勝あり。文入墨客の杖を曳くに可なるは南伊賀の風景なり。
 赤目四十八滝開発史において一時期を画するできごとは大正11年の伊賀鉄道開通であった。関西線を経由して大阪・名古屋から容易に名張まで来られるようになった。地元では赤目遊園株式会社を設立し、大々的な開発に乗出し、探勝路改修、植林、宿泊施設などを完備した。
 赤目滝開発の原動力となってきたのはつねに地元民の旺盛な意欲であったが、熱心な協力者として伊賀鉄道株式会社田中善助社長の名を見おとしてはならぬ。『鉄城翁伝』で翁みずからこう語っている。
赤目・香落の勝景は都人士の遊覧地として大に紹介するに足るのでありますが、それには自動車を入れるようにせねばなりませぬ。よって伊賀鉄道が経費を負担し、滝川村の青年団員が道路の拡張工事をしたのであります。大阪および名古屋鉄道局の援助を得て宣伝につとめた。甲斐があって、名古屋から二等団体の貸切列車を名張まで直通させたこともあり、日本百景の内に選ばれ春夏秋とも遊観客が来るようになりました。ここにおいて、輸送力の増加と旅客に快感を与うべく全線を電化することとし、……大正十五年電化が完成したのであります。
 伊賀線開通、道路改修に呼応して名張自動車株式会社は石の鳥居から滝までの間に定期乗合とタクシーを開設した。
 大正14年10月、史蹟名勝天然記念物保存法により名勝地に指定、昭和2年6月大阪毎日・東京日々主催の「日本新八景」の選定で日本百景の一つに選定された。
 ついで、赤目滝開発史上もっともエポックメーキングな契機となったのは昭和5年の参宮急行電鉄の開通であった。赤目口駅が設置せられ、大阪からわずか一時間の距離となった。この電車の開通によって初めて大衆的観光地としての基礎が開かれた。大阪方面からの観光客が激増したのを機に観瀑道を今日のように子供でも楽に遊歩できるよう大改修をほどこした。
 戦後の昭和23年7月、赤目滝・香落渓を中心とする山岳・河川を包容し、一町十一か村にわたる区域を県立公園に指定、赤目一志峡県立公園と名づけた。同25年10月、毎日新聞社主催「日本観光地百選」の国民投票においても十万八千余票を得て瀑布の部第一位に当選した。これを機に日本一の滝として赤目四十八滝の名は全国的に喧伝せられ、観光客が飛躍的に増加した。ここにおいて大衆的観光地としての不動の地位が確立したといえる。
 その後施設の充実をかさね、年内四十万人の観光客を誘引する関西有数の大衆レジャー・センターとなったが、昭和40年すぎから出現したマイカー時代は駐車場問題を前面に押しだし、その解決に地元は苦心しつつある。
 昭和45年12月28日付官報で室生赤目青山国定公園が指定された。
 古刹延寿院は多くの史跡にとんでいる。

七色岩 日本漢文の世界 kambun.jp
左の大岩には「七色岩」という名がついています。

 渓谷の遊歩道を歩きながら、私たちは火山岩でできた山と渓谷の景観に始終圧倒されておりました。
 私が子供の頃によく登っていた六甲山系の山山も休火山なのですが、ハイキング道は土の道でした。ところが、ここ赤目の遊歩道は岩の道なのです。どこまで行っても切れ目の無い一枚の大岩が、山全体を形作っているのです。
 ですから、川の底も一枚の大岩で、川は岩の上を流れ、滝は岩から注ぎ、滝つぼも大岩がえぐられてできています。しかも、道の左右はいわゆる「柱状節理」の崖がそびえ、よく晴れていたにもかかわらず、昼間から薄暗いほどでした。また、川には大きな岩がごろごろと転がっていましたが、これらは左右の崖が崩れて落ちてきたものだと、すぐに察しがつきました。

赤目四十八滝の大岩郡 日本漢文の世界 kambun.jp
このような大岩が、ごろごろと転がっています。

 私たちが訪れた際、落石事故で遊歩道終点から名張駅へのバスが運休になっておりましたが、この一帯の落石はいかに恐ろしいものであるか、容易に想像がつきます。赤目四十八滝は、それこそ数千年にわたって水流が岩をうがち、できあがったものなのです。



2009年3月28日公開。2017年7月23日一部追加

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