[原文] 民友社版4頁; 岩波文庫(新版)8頁
「左樣で厶いますよ」言ひつつ手さぐりに寸燐を擦りてランプを點くるは、五十あまりの老女。
折から階段の音して、宿の女中は上り來つ。
「おや、恐れ入ります。旦那樣は大層御緩りでいらつしやいます。・・・・はい、あの先刻若い者を御迎へに差上げまして厶います。まう御歸りで厶いませう。――御手紙が――」
「おや、お父上の御手紙――早く御歸りなされば宜に!」と丸髷の婦人はさも懷し氣に表書を打かへし見る。
「あの、殿樣の御狀で――。早く伺ひたいもので厶いますね。おほほほほ、屹度また面白いことを仰有つてで厶いませう」
女中は戸を立て、火鉢の炭をついで去れば、老女は風呂敷包を戸棚に仕舞ひ、立つて此方に來たり
「本當に冷えますこと! 東京とは餘程違ひますで厶いますねェ」
「五月に櫻が咲いて居る位だからねェ。姥や、もつと此方へお寄りな」
「有り難ふ厶います」云ひつつ老女はつくづく顔打眺め「嘘の樣で厶いますねェ。斯樣に御丸髷に御結ひ遊ばして、整然と座つて御出遊ばすのを見ますと、ばあやが御育て申上げた御方樣とは思へませんで厶いますよ。先奧樣が御亡なり遊ばした時、ばあやに負されて、母樣母樣ッて御泣き遊ばしたのは、昨日の樣で厶いますがねェ」はらはらと落涙し「御輿入の時も、ばあやはねェあなた、彼御立派な御容子を先奧樣が御覽遊ばしたら、如何樣に御嬉しかつたらうと思ひましてねェ」と襦袢の袖引出して眼を拭ふ。
御輿入・・・嫁入りのこと。
襦袢・・・・和服の下着。
2009年10月4日公開。