漢譯不如歸 上篇 (一)の一(2)
[原文] 民友社版2頁; 岩波文庫(新版)7頁
春の日脚の西に傾きて、遠くは日光、足尾、越後境の山山、近くは、小野子、子持、赤城の峰峰、入日を浴びて花やかに夕榮すれば、つい下の榎離れて啞啞と飛び行く烏の聲までも金色に聞ふる時、雲二片蓬蓬然と赤城の背より浮み出でたり。三階の婦人は、坐ろに其行衛を瞻視りぬ。
兩手優かに抱きつ可き、ふつくりと可愛氣なる雲は、徐ろに赤城の巓を離れて、遮る物もなき大空を相並むで金の蝶の如く閃きつつ、優優として足尾の方へ流れしが、やがて日落ちて黃昏寒き風の立つままに、二片の雲今は薔薇色に褪ひつつ、上下に吹き離され、漸次に暮るる夕空を別れ別れに辿ると見しも暫時、下なるはいよいよ細りて何時しか影も殘らず消ふれば、殘れる一片はさらに灰色に褪ひて朦乎と空にさまよひしが、
果ては山も空も唯一色に暮れて、三階に立つ婦人の顔のみぞ夕闇に白かりける。
夕榮・・・夕映え。夕日を受けて照り輝くこと。
2009年9月6日公開。