大日瀑を觀るの記
餘音漎然たり
半谷田可復書
青谷老人
鞋は行き筆は記す兩ながら艱辛なり
千古の幽泉闡き得て新なり
且つ喜ぶ山靈秘惜すること無く
他の奇勝を傾けて吾人に付するを
梁洲老人舉
大日瀑を觀るの記
鎌田政舉
庚申の初冬。余津城自り歸り、青谷宮崎君と倶に、將に親ら導きて赤目の瀑を觀んとす。而して故有りて得ず。人をして代りて導かしむ。
其の人回り報じて曰く、「不動瀑の上數百歩、右顧すれば遙かに一大瀑を樹隙に得たり。其の崇きこと仰ぐ可し。號して大日瀑と曰ふ。宮崎君之が圖を爲る。子嘗て諸瀑を記す。而るに獨り之を漏らすは何ぞ也。」と。余笑つて曰く、「諺に所謂鬼視の遺也」と。
十一月念三日、某生を拉して往きて之を觀る。山口二徑有り。左して登る。其の頂を經塚と呼ぶ。少しく下れば則ち澗を隔てて瀑に面す。余驚き怪みて已まず。曰く、「何ぞ相見ゆるの晩き也」と。
蓋し三層相承け、絶高倫無し。但し林樹其の頭脚を遮るを以て、其の全身を認め難き耳。就きて之を觀んと欲す。下りて澗隈に向へば、忽焉として林中に没し、目搜すれども得ず。因りて謂へらく、余の屢游ぶや、多く澗に循つて上る。其の今の道に由る者幾も无し。況んや曩の游は樹葉蔚葱たり。其の目に觸れざるも亦宜ならず乎。
水を絶りて躋れば、寒梢槎枒し、礧石狼藉して、往往雪を鋪く。艱步すること町餘にして乃ち達す。石崖壁立す。幅三丈可り。色は積鐡の如し。滿崖水瀉ぎ下り、舒遅蕭爽たり。水と崖色と相映じ、鐡板・鎔銀の如し。而して崇さは曳布を壓す。崖趾には盤石有りて水を承け、激揚して噴霧す。飛沫の及ぶ所、兩腋皆冰骨數丈なり。此れ下の一層と爲す。其の上の二層は、復た觀る可らず。蓋し地勢の然らしむる耳。
此の瀑は特に遠望併觀を以て妙と爲す也。初め將に躋らんとするや、下流に沿ひ求む可き無きを怪しむ。是に至りて始めて知る、流注すること數步にして石罅に滲み入ることを。蓋し其の下は伏流して澗水に合する耳。
余二生を顧みて曰く、「嘻。斯の瀑をして潭有らしめん耶、諸勝は皆下風に在り」と。生の醫を業とするもの乃ち曰く、「潭無きも何ぞ妨げん。頭風を患ふ者は、暑月頂を瀑に灌げば則ち癒えん。他の瀑は皆潭有りて畏る可く、而して此れ獨り狎る可し。豈に更に妙ならず乎」と。余以て答ふる無し。
村に返りて回顧すれば猶ほ其の面目を杉杪に見る。益其の崇高に驚く。土人云く、「夏日大いに雨ふれば、洵に鉅觀爲り」と。意ふに必ず然らん。夫れ未だ澗に入るに及ばずして、先ず此の觀有り。諸瀑の爲に標を建る者の似し。
余耳を瀑聲に洗ふ者半生。而るに是の如きの觀有るを知らず。乃ち宮崎君に拈出せ被る。是れ我の人を導かば、人の實に我を導くに非ず也。豈に所謂秋毫を察して輿薪を遺す者ならん乎。予始めて應接の際、一人の耳目の恃む可らざるを悟れり。瀑すら猶ほ此の如し。況んや瀑より大なる者を乎。
2017年3月26日公開。