二女狼を斃す
安井 息軒
信の地は山に僻し、猛獸多し。松代の封内、農家の女、年は十七、拂暁山足に蒭る。老狼林に嘘く。女見て愕然たり。嘗て父老の言を聞く。「狼は性走れば則ち噬み、止まれば則ち去る」と。乃ち右手に鎌を持ち、凝立して之に向ふ。狼徐に進む。閒三歩可りにして、怒躍して胸を噬む。女其の兩耳を捽み、之を地に壓ふ。鎌もて其の喉を斷たんと欲すれども、奮起して拏み噬まんことを恐る。然れども勢ひ止む可らずして、稍左手を鬆むれば、狼果して奮起して相搏ち、其の頭を躍噬す。中らず。女兩耳を捉へて之を側せ、膝もて狼の前脚を據ふ。而れども曏に相搏ちしとき、已に鎌を失ひ、如何ともす可らず。乃ち「我を救へ」と長號す。
一女有り走り來り、遙に之に謂ひて曰く、「姐は某氏に非ず乎。」と。曰く、「是れ也。精力盡きたり。幸ひに來り救へ。」と。曰く、「救はん哉。緊く捉へて鬆むること勿れ。」と。遂に走り進み、鎌を腰より抽き、狼の脰を亂斫し、且つ突き且つ抉る。狼勢ひ大に衰ふ。乃ち捨てて走り歸り、具に父兄に告ぐ。
年少八九人、之を聞きて走せ往けば、老狼果して莽に伏す。懼れて敢て近づかず。礫を拾ひて之に投ず。動かず。乃ち往きて之を觀れば、狼十餘傷を帶び、蠕動して未だ死せず。遂に之を擊ち殺し、舁きて以て家に至る。一村盡く驚けり。
救ひし者は其の從姊也。女より長ずること一歳。松代侯錢六千を賜ひて之を賞す。女は五千錢なりき。實に嘉永戊申秋九月の事也。
2002年3月24日公開。