姓・号 | 安井 息軒(やすい そっけん) |
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生没年(享年) | 寛政11年(1799)-明治9年(1876) (78歳) |
諱(いみな) | 衡(こう) |
字(あざな) | 仲平(ちゅうへい) |
通称 | 仲平(ちゅうへい) |
雅号 | 息軒(そっけん) |
謚(おくりな) | |
出身地 | 日向の飫肥(おび)藩。宮崎郡清武村(現清武町)というところ。 |
師の名 | 松崎慊堂 |
官職等 | 昌平黌教授 |
代表的著作 | 論語集説ほか、四書の注(冨山房の漢文大系1) 管子纂詁(冨山房の漢文大系21) 弁妄(日本評論新社「明治文化全集23 思想篇」、岩波書店「日本思想大系47 近世後期儒家集」に訓訳版が所収) 息軒遺稿(4巻) |
伝記: 息軒は、近世の大儒と仰がれている。 飫肥藩の藩儒、安井滄洲の次男として生まれ、21歳のとき、大阪の篠崎小竹のもとで学び、26歳で昌平黌に入って、かたわら松崎慊堂に学んだ。篠崎・松崎の両人とも、息軒の学識に大いに驚き、「弟子を以て之を視ず」と伝えられている。その後、28歳で藩主侍読とり、38歳のとき再び江戸に出て、昌平黌に学びながら、三計塾をおこした。このころ塩谷宕陰と親交を結んだ。 44歳のとき松島へ旅行し、旅行記を書いた。このとき、塩谷宕陰は有名な『送安井仲平東遊序』(『漢文名作選』第2集所収)を作り壮行した。(宕陰はこのとき34歳。) その後、ペリーの来航で天下が騒然としたとき『海防私議』を著して、海防策を主張した。藤田東湖を介して水戸烈公に知られたのもこのころである。 64歳のとき幕府直参となり、昌平黌教授に任じられた。朱子学派以外の学者(息軒は古学派)の任用は、前例なきことであった。息軒の名声がいかに高かったかが分かる。 その後、三計塾での議論をもとに『管子纂詁』を作り、これを洋行する中村敬宇に託して、清国の応宝時の序文を得た。また、明治6年、75歳のとき、邪蘇(基督)教の蔓延を憂え、破邪書『弁妄』を書いている。 明治9年、78歳で没。 息軒の主著である四書の注釈と管子纂詁は、冨山房の漢文大系に収められているので、現在でも容易に見ることができる。 安井朴堂(小太郎)は、息軒の外孫にあたる。 息軒の夫人は、「岡の小町」と呼ばれた評判の美人であった。(森鴎外『安井夫人』) | 2002年3月24日公開。 |