日本漢文の世界


二女斃狼解説

 信州の山で狼に遭遇した少女とその従姉が、必死の力で闘ってついに狼を斃したという事件の記録です。狼は1メートルほどの体長がある、獰猛な、恐ろしい動物です。その狼と素手同然で闘い、斃すということは、大の男にとっても容易なことではありません。それを二人の少女がなしえたことは、まことに幸運であり、驚くべきことです。
 この話は当時余程話題になったと見え、堤静斎(つつみ・せいさい、1827-1892)も同じ『二女斃狼』の題で漢文の記録をのこしています。それは、息軒先生のこの文章の3倍以上の字数を費やした詳細な記録です。それによると、狼と格闘した17歳の少女の名は「肥能(ヒノ)」、助けた従姉は「志満(シマ)」という名で、37歳だったということです。(息軒先生は、助けた従姉は被害者の娘より1歳年上だとしているので、従姉の年齢に食い違いがあります。)堤静斎の文章は、『事実文編』の次編十六に載っていますから、興味のある方はご覧ください(国書刊行会版では第五巻272ページ)。
 息軒先生のこの文章の読みどころは、もちろん狼との格闘場面です。これほど簡潔な文章で臨場感を出している筆力は並大抵ではありません。堤静斎の文章や、『水滸伝』(第23回)にある行者武松の虎退治の場面と比較してみてください。もう一つ注目していただきたいのは、息軒先生の文章は、秦漢風の擬古文であることです。通常の漢文とは、語彙がちょっと違うのが目に付くと思います。そのあたりは訓読も工夫してみました。(ご批正をいただければ幸いです。)
 日本狼は、明治の末ころに絶滅したとされ、現在その姿を見ることはできません。剥製も数体しか残っていないそうで、そのうち一体は、幕末にシーボルトが本国オランダに持ち帰ったものだそうです。

2002年3月24日公開。