日本漢文の世界


中江藤樹傳現代語訳

中江藤樹伝

塩谷 宕陰
 中江原(なかえ・げん)は、字(あざな)を惟命(これなが)という。近江国(現滋賀県)の人である。父親の吉次(よしつぐ)は、農民として目立たぬよう暮らしていたが、祖父の吉長(よしなが)は四国大洲の領主・加藤貞泰(かとう・さだやす)に仕え、原を自分の養子にした。原は生まれつき非凡な才能があり、幼児のときすでに成人のようだった。11歳のときに初めて『大学』を読んだとき、「天子から庶人にいたるまで、総じて自身の行いを正すことが根本である」という句を見て、「だれでも学ぶことによって聖人になることができるのだ」と感嘆し、感激のあまり涙があふれて衣服を濡らした。ちょうどその時に京都から大洲に来ていた僧侶について『論語』を習い、その後『四書大全』を入手した。当時の習俗は武芸一辺倒で、武士たる者は書物を読むような軟弱な者とは交際しないという風であった。そこで原は昼間は仲間の武士たちと武芸を習い、夜になると灯りをともして書物を音読し、刻苦勉励して、分からないところがあれば考察に集中した。寝ている間にも天啓を受けたように悟ることがあり、しまいには奥義を自得するに至った。
 その後間もなく祖父の吉長が亡くなった。原は近江国へ帰省し、母親を大洲に連れてこようとした。母親は海を越えて他国へ行くことを嫌がったので、原は一人で大洲に帰ったが、母親を思う気持ちは抑えがたいものがあった。そこで自分が故郷に帰り母親を養うため、藩主に致仕(辞職)を願い出たが、許されなかった。やむなく原は家財道具を処分して負債を償い、脱藩して近江国に逃げ帰った。携えていた旅費はわずか百銭。その後は酒屋を営んで母親を養った。
 原は品行正しく、篤実で、智恵と蘊蓄があった。弟子たちを指導するときは必ず『孝経』を講義した。「愛敬」の二字については、心を込めて教えた。「愛敬を実践していれば、相手に心が自然と伝わる。湿気のあるほうに水が流れ、乾燥したものに火がつくようなものだ。我々自身の愛敬の心はふだんは気質や習慣でおおわれて全く見えないが、親子や兄弟の間では時として愛敬の心が現われることがある。この心をよくよく認識して育てていけば、聖人・賢人の心持ちが分かってくるのだ。」
 原は、いつも村民たちを集めては教えさとしていたが、村人たちは賢い者もそうでない者も原の教えに従ったので、商人でさえも正直になり、恥を知るようになった。旅館や茶屋で客の忘れ物があれば、必ず保管して(客が取りに戻るのを)待つようになり、ねこばばすることはなくなった。
 宿駅で馬方をしている村人が、あるとき運び賃を二銭多くもらいすぎたことに気づき、客を追いかけて返金した。その客は「なんでそんなにバカ正直なことをするのか」とあきれたが、馬方は「私が正直なわけではありません。師匠の教えのとおりにしただけです。」と答えた。郷里では原を「近江聖人」として尊敬するようになり、学問に志す人たちが遠方から来て教えを受けるようになった。原の家には藤の古木があったので、原は「藤樹先生」と呼ばれるようになった。
 以前、原が大洲にいたころ、大野氏と親しくしていたが、その息子・了佐は知的障がい者だった。大野は息子には家を継がせることができないと考え、賎業に従事させようとしていた。了佐はそれを恥ずかしく思い、原に医術を内緒で教えてほしいと頼んだ。原は了佐をかわいそうに思って医書『大成論』を教えた。しかし、何十回、何百回も声を出して読ませても、了佐は一文字も覚えることができなかった。原が近江に帰郷したあと、了佐も近江まで追って来たので、原は了佐のために『醫筌(いせん)』という本を著わして、これをもとに教えた。その甲斐あって、了佐はついに医者として大成するに至った。原はかつて弟子たちに語っている。「私は了佐の教育にほとんど全精力を傾けた。しかし、了佐自身の刻苦勉励がなければ、私が精力を傾けたところで、どうにかなるものではない。君たちは天賦の資質においては了佐とは比較にならぬほど優れている。だから志さえあるなら、成功できないかもしれないと気に病む必要はないんだ。」弟子たちはまっすぐ進んで、資質に応じて大成することができた。
 原の評判はうなぎのぼりだった。大名たちは原を招聘しようとしたが、原はすべて断った。備前藩主・池田光政は手厚い贈り物をして招こうとした。原は老齢と病気を理由として、子供や門人を代わりに行かせた。危篤状態になったとき、女性たちを退席させ、机に寄りかかってじっと座り、門人を呼んだ。「私は間もなく死ぬ。(私が死んだら)いったい誰がこの学問を実践してくれるのか。(誰もいないではないか。)」そう言い終わって瞑目した。享年四十一。慶安元年(1648年)のことである。
 備前藩主・池田光政は熊沢蕃山を遣わして弔慰金を贈った。近隣の人たちは、老人を助け、幼児を連れて葬送に参列し、涙を流して出棺を見送った。その様子は、まるで自分の父母が亡くなったときのようだった。村人たちは原の居宅を改修して祀堂(しどう=死者を祀る場所)とし、春と秋に祭祀を行うこととしたが、それは今も続いている。
 その後あるとき、一人の武士が原の墓を参拝しようとして、農夫に道を尋ねた。農夫はもっていた鋤を置くと、急いで家に入って服を着替え、先に立って案内した。そして(墓につくと)恭しく跪いて拝礼し、きれいに掃除をした。武士は内心いぶかしく思い、農夫に尋ねた。「(そこまでのことをするのは、)そなたは藤樹先生とは親戚か知り合いなのか。」農夫の答え。「村ではみなが先生のことを尊敬申し上げております。私だけではありません。村では親子は慈愛に満ちており、夫婦は互いに大切にしています。家の中で怒鳴り声が聞こえることはなく、家族がみな温和な表情をしていられるのは、すべて藤樹先生のおかげです。ですから先生のご恩を受けていない村人は一人もいないのです。」武士はこれを聞いて居住まいを正した。「ああ、拙者はやっと今『近江聖人』の名に偽りなきことが分かり申した。」といって、武士はねんごろに拝礼して帰っていった。

2024年12月7日公開。