日本漢文の世界

姓・号 鹽谷 宕陰(しおのや とういん)
生没年(享年) 文化6年(1809)-慶応3年(1867) (59歳)
諱(いみな) 世弘(せいこう)
字(あざな) 毅侯(きこう)
通称 甲蔵(こうぞう)
雅号 宕陰(とういん)
謚(おくりな)  
出身地 江戸
師の名 松崎慊堂
官職等 昌平黌教授
代表的著作 宕陰存稿(17巻)
昭代記(10巻)
隔靴論(1巻)
阿芙蓉遺聞(7巻)
籌海私議(1巻)
肖像:

鹽谷宕陰 日本漢文の世界

伝記:

 宕陰は、16歳で昌平黌に学んだ。このとき安井息軒、山田方谷と同窓であった。その頃、京都へ趣き頼山陽に会っている。その後、松崎慊堂(まつざき・こうどう)の弟子となり、その推挙によって水野忠邦公(遠江浜松藩主)に仕えた。水野公が老中首座として天保改革に乗り出すと、顧問役として政治的進言もしばしば行っている。
 文久2年(1862年)、安井息軒、芳野金陵とともに昌平黌教授となり、文久三博士と称せられた。中村敬宇は昌平黌での愛弟子である。
 漢文の作文に巧みで、「日東の欧陽脩」と称せられ、頼山陽とならぶ江戸時代後期の大文章家とされている。
 宕陰には子がなかったため、弟の簣山が塩谷家を継ぎ、その子の青山、青山の子の節山と、四代にわたって漢学で盛名を馳せた。(節山は、大正・昭和初期に東京帝大教授をつとめた、塩谷温博士の雅号。)
2001年10月21日公開。

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