この文章は、寛政三博士(柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里)の一人(中心的人物)である、柴野栗山が作ったものです。松平定信(楽翁公)は「寛政異学の禁」によって幕府の学問所・昌平黌での朱子学以外の学問を禁じました。栗山先生は、寛政三博士の一人として、楽翁公の意を受けて昌平黌を整備し、朱子学による幕政の復興を助けた人です。
江戸時代の漢文は、寛政三博士の頃から洗練されてくるのですが、栗山先生の文章には、まだ荒削りで、野暮ったいところがあります。
この文章は、栗山先生が、近畿地方へ旅行したときのことを題材にして、若者に学問の必要を説いた「進学三喩」の第三番目のものです。「進学三喩」は、今日の読者から見ると、成功した老人が若者を諭すお決まりの訓話のような印象を受けます。しかし、これを書いた当時の栗山先生はまだ39歳で、徳島藩儒という立場であり、中央に進出して八面六臂の活躍をするより以前の文章です。栗山先生は小成に安んぜず、この後も精進を重ねたのです。だから、この文章は自慢話の類ではなく、実感を記したものであったと分かります。
「進学三喩」の内容を少し紹介しておきます。第一喩は、京都を出発したときの話で、他の旅人たち近くの善峯寺を目指して、話をしながらだらだらと歩いていたが、栗山先生は目的地が遠い(翌日は箕面、翌々日は神戸まで行っている)ので早足で歩いていると、いつの間にか前にいたはずの他の旅人達は、はるか後方になっていた。このように、遠大な目標に向けて、一歩一歩確実に歩み、決して休まないことが、学問においても大切である、と説いています。(この第一の話は特に有名で、戦前の中学校用漢文教科書の多くに掲載され、大修館書店の『漢文名作選(第1集)5』にも収録されています。)第二喩は箕面(栗山先生は「箕尾」と表記)へ行った話で、途中で分かれ道があり、立派そうな道を自身ありげに行く童子たちについていくと、彼らもろとも道に迷ってしまい、西宮への到着が深夜になってしまった。学問においても、異端の学問に寄り道すると、後悔しても追い付かないと説きます。そして、第三喩が、この文章で、摩耶山の登山の話を例として、苦しくても最後まで成し遂げてこそ、学問の楽しみが味わえると説いているのです。
この文章のはじめのところで、徒歩での旅行で、三日間の道のりがたいへんだったから、摩耶山に登るのはあきらめようか、としりごみする場面がでてきます。京都、箕面、兵庫と、強行軍での徒歩旅行で、最後に急峻な摩耶山の登山とは、当時の人の健脚ぶりには、ただ驚くばかりです。
明治頃の摩耶登山風景。
現在の摩耶山の石段。
2010年10月1日撮影
この文章は、当サイトで紹介している他の文章に比べると、古い時代のものですが、あえて紹介しようと考えたのには、理由があります。
以前当サイトで紹介した斎藤拙堂の『觀曳布瀑遊摩耶山記』と、この栗山先生の文章に酷似した部分があることに気付いたからです。
幕末に「文豪」として尊敬を集めていた斎藤拙堂が、寛政期の先輩の作品を参考にしていることには、興味をそそられます。
以下に、二つ文章の似た部分を列挙してみます。
(栗山)向之指掌者皆可脚蹴、而平臨者皆可俯而瞰。
(拙堂)俯瞰連日所經歷、皆在履下。
山上から見ると、さきほどまで歩いてきた道は、はるか眼下にかすんでいる。
(栗山)土阪極峻、舉趾高於帶。行數折。氣息喘喘、喉間成聲。
(拙堂)然路甚險、一歩一喘、纔及山門。
山道は険しいので、一歩ごとに息がぜいぜいする。
(栗山)但山門内頗峻絶、左右憎房皆倚巖、砌石以為基、高或數十丈。自下而上、層層成級、以夾石磴。磴之長或數百千級。
(拙堂)門内尤峻、石磴掠面而起數百級。僧坊夾磴、皆砌石爲基。高數十仞、層疊向上、儼如城郭。
特に山門内は道が険しく、僧坊は、石を積んで基礎として、石段を両側から挟みこむように建てられれている。
(この部分は、とくに酷似しています。)
(栗山)阿與紀斷處、浩波蕩天、直可挹南溟。
(拙堂)至紀阿之際、兩間不相合、如大環缺。從缺而望、鵬程萬里、杳渺無際。
阿波の国と、紀伊の国との境は、すこし間があり、そこから太平洋が見える。
摩耶山上からの眺め。
2010年10月1日撮影
着想や用字が良く似ており、拙堂が栗山先生の文章を下敷きにしているのは明らかです。
ただ、表現は、拙堂のほうが、格段に洗練されています。わずか半世紀ほどで、これほどまでに日本漢文は進化したのです。
しかし、栗山先生の、いささか野暮ったい文章にも、独特の味わいがあります。斎藤拙堂の洗練された表現と比較して楽しんでいただければ、と思います。
2012年4月30日公開。2012年5月13日一部修正。