柴野 栗山
西宮の宿場から二里(約1キロメートル)ほど歩き、菟原(うばら)の宿場に着いた。右側には摩耶山が雲の上にそびえ立っている。心は、うきうきして、はや摩耶山の頂上に立った気分だ。しかし、旅行はすでに三日目で、昨日は歩きすぎて疲れきっているので、はたしてこの山を登りきれるかとの不安もよぎる。供の下男が察して声をかけてくれる。
「お疲れの御様子ですが、ここまでは、めったに来られませんよ。春の陽気に乗じて、一気にお登りになるのがよろしいでしょう。」
そこで私は、右へ曲がって畑中の道を、数十里(20~30キロメートル)歩いて行く。はじめはそれほど高みへ登る感じはしないが、摩耶山の登り口にある茶店に着くと、すでに浜辺よりは数十丈(200メートル程度)も高い場所だと気付いた。まっすぐ東側を見れば、海の向こうに摂津・和泉の両国があり、山や川、町や村は綺麗な錦や碁盤の目のように小さく、まるで手のひらに載せているように思えた。私は、店の表に坐り、下男を振りかえって言う。
「もうこれを見たから十分だよ。」
ところが下男は力説する。
「ここまで来たのです。摩耶山など、ちいさな岡のようなものですよ。飛び越えることもできましょう。お疲れになっている場合ではございませんよ。」
そこで、荷物を下ろして店の主人に預け、杖をついて登って行く。土の坂道は、とても険しく、足を腰のあたりまで挙げなければ登れない。くねくねした山道を何度か曲がると、はあはあと息が切れて、のどはぜえぜえと情けない音を出す。数十歩(数十メートル)あるくごとに、たちどまって振り向くような有様だ。下男は私の気力がなえてきたのを見抜いて声をかけてくれる。
「ご主人様。頑張ってください。もう少し行けば、とても素晴らしい御褒美がありますよ。」
それでまた元気を出して険しい道を十里余り(5~6キロメートル)も歩き、平らなところを見つけて草の上に坐った。すると、さきほど手のひらに載せたようだと思った景色は、足でけるほど下のほうにあり、まっすぐ前に見えていたものは、かがんで見なければ見えなくなっている。隠れたものは露わになり、包まれたものは吐き出され、すべてが丸見えになっている。山の下での眺めに比べれば、素晴らしさは数十倍だ。譬えようもない楽しさだ。
下男は笑って話しかけてくる。
「この素晴らしい眺めをご覧になれば、苦労のしがいがあったとは思われませんか。これで坂道はもう七八分は登ってしまいましたから、残りの道はそれほど険しくはございません。ご主人様、あと少しだけあるくのを面倒がって頂上まで登らないのは得策ではございませんよ。」
私は頷いた。たしかに坂道は少し緩やかになり、普通に歩けるようになった。しかし、山門の中に入ると、道はとても険しい。左右の僧坊は岩に寄り添って建てられており、基礎部分は切りそろえた石である。高さは数十丈(約200メートル)はあろうか。下から上へと階段状に床を重ねた高層建築で、参道の石段を両脇から挟むように建てられている。石段の数は、数百、あるいは千はあろうか。やっとのことで、山頂に到達し、坐った。東北を見れば河内の国が全部見える。意気揚揚とあいさつしているのは、金剛山脈だ。南に目を向ければ和泉、紀伊の両国があり、また南一体に雲のように見えるのは阿波の国だ。阿波と紀伊の間の切れ目は、大波が天まで洗い流して、南海の水をじかに汲みとれるようだ。近くを見れば、淡路島、和田御崎があり、更に近づけば湊川や生田川が見える。源義経が平家を敗走させた場所、楠木正成が義理のために殉死した場所、足利氏、新田氏らが興亡した場所も見える。狭い場所に築かれた要塞は、彼らが自衛のために築いた拠点である。山の形は手に取るように分かり、川は源から河口まで、はっきりと見える。
そこで思ったのだが、もしあのとき山道の険しさを恐れ、苦労を厭がって、途中で登るのをやめていたら、このような楽しみは味わえなかった。苦労に勝つ者は、楽しみを得られる。百倍・千倍の苦労に勇み立つならば、百倍・千倍の楽しみを得られる。苦労が多いほど、楽しみも多い。『論語』には「困しみて学ぶ」とある。また「楽しみて憂いを忘る」ともある。苦労があるからこその楽しみである。だから、君たち若者は、わずか十数年の間、苦労して勉強するのを厭がって、一生の楽しみを失わないように、気を付けていただきたい。
2012年4月30日公開。