姓・号 | 柴野 栗山(しばの りつざん) |
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生没年(享年) | 元文元年(1736)-文化4年(1807) (72歳) |
諱(いみな) | 邦彦(くにひこ) |
字(あざな) | 彦輔(ひこすけ) |
通称 | 彦輔・彦助(ひこすけ) |
雅号 | 栗山(りつざん)・古愚軒(こぐけん) |
謚(おくりな) | |
出身地 | 讃岐国(香川県)高松 |
師の名 | 後藤芝山、中村蘭林、林榴岡、片山北海 |
官職等 | 幕府儒官・昌平黌教官 |
代表的著作 | 栗山文集(五巻) 栗山堂詩集(四巻) |
肖像:
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伝記: 柴野栗山は、讃岐国(香川県)三木郡牟礼村(現高松市牟礼町)に生まれ、はじめ藩校教授であった後藤芝山から教えを受けた。後藤芝山は、訓点の「後藤点」に名を残す朱子学者である。18歳のとき江戸へ遊学し、室鳩巣門下の中村蘭林に学び、更に林家の湯島聖堂(のちの昌平黌)に入って林榴岡のもとで朱子学を修学した。 学成って32歳のとき徳島藩儒となり、世子の侍読も務めた。禄高は400石で、52歳で幕府に招致されるまで藩儒の地位にあった。そのかたわら、京都を拠点に学問活動を展開し、堀川塾を開いて子弟を教育したほか、大阪の片山北海が盟主をつとめた混沌社にも出入りして頼春水、尾藤二洲らと交友し、さらに京都において皆川淇園、西依成斎、大川滄州らと「三白社」を作って切磋琢磨しているので、かなり自由な身分であったことが分かる。 天明7年(1787年)、栗山52歳のとき、老中首座・松平定信(楽翁公)より礼を尽くして幕府へ招致され、江戸へ赴いた。その後、楽翁公の片腕として寛政の改革の立案に関与し、とくに「寛政異学の禁」といわれる学制改革に腕を振るった。これは、それまでの湯島聖堂を幕府の学問所(昌平黌)に改め、朱子学のみを正学とし、当時なお隆盛であった荻生徂徠の古学等を「異学」として排斥する学制改革だった。これに対し、江戸では亀田鵬斎、山本北山、市川鶴鳴、豊島豊洲、塚田大峯らが強硬に反対を唱え、地方では赤穂の赤松滄洲が『論学書』を著して弁駁するなど大激論が起ったが、栗山は世間の批判には一切取り合わず、黙黙と改革を進めた。これによって、江戸の漢学は朱子学一色となり、「異学」とされた学者は凋落した。また諸藩も幕府を恐れ、次次とこれに倣ったので、我が国の学問は朱子学一色になっていった。 寛政三博士(柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里)が幕府に招致された背景には、大学頭・林家の衰退がある。楽翁公は、寛政の改革の中で特に学問を奨励したが、当時学者(儒者)の間に風紀の乱れがあったため、学問界にも筋を通そうとしたと言われる。栗山は、その時流に乗り、己の理想とするところを実現することに成功した。猪口篤志著『日本漢文学史』(角川書店)は、「異学の禁は官権を背景に風俗の匡正を第一にねらったものだけに、文人の気風にも影響変化を与え、且つ三博士が詩文の上でも他を圧倒する実力を有したから、ここに至って藷園派の余習を脱し、文は唐宋八家、詩は宋詩を標的とするようになっていった。異学の禁はこの後思想の統制では完全に失敗し永く続かなかったが、むしろ文学界では正道に向って一大変革をもたらしたといっても過言ではない。」(同書318ページ)と評している。寛政以後、我が国の漢詩文が洗練の度を加え、明治にいたるまで未曾有の活況を呈したのは、栗山ら寛政三博士の功績が大きい。 栗山には多くの詩文があり、『栗山文集』等に収録されている。とくに『進学三喩』が最も有名で、その一部は、戦前の中学校用漢文教科書の多くに掲載され、大修館書店の『漢文名作選(第1集)5』にも収録されている。 栗山は、文化4年(1807年)に72歳で没した。 | 2012年4月30日公開。 |