傑出した人。非凡な人。「奇人」、「奇男子」、「怪傑」などと同義。
罷免(改易)されたということ。父・良通は、元文5年(1740年)に同僚を斬りつけたため、改易になった。
妻(ここでは側室)として迎えること。
わが仙台藩。「本」は自己の所属であることをあらわす代名詞。
貴人(ここでは藩主)の妾。子平の姉は、仙台藩の第6代藩主、伊達宗村の側室になった。
豪快非凡で、礼法にこだわらないこと。
享楽的な生活におぼれること。
衣食が満ち足りること。衣食が足りると、いろいろあらぬ欲望が起こってくる。
意外な災難、または事故。
「寒苦樸素」の略で、貧しく質素なこと。
「自給」とは、自分で自分の生活に必要なものをまかなうこと。
「襤褸」は、やぶれてぼろぼろになった衣服。ぼろ。「糲食」は粗悪な食べ物。そういう質素な生活のこと。
健脚であること。
足駄をはくこと。
熟知していること。
国境の防衛。(中国奥地で、匈奴などにそなえる辺境の守備という語感がある。)
工藤平助(1734-1800)のこと。字は元琳、通称は平助、球卿と号した。『赤蝦夷風説考』を著して、ロシアの南下を警告した。子平の『海国兵談』の序文はこの人が書いている。
住まわせてもらうこと。
地方軍の長官。ここでは長崎奉行として赴任した、柘植(つげ)長門守正寔(まさたね)のこと。
子平は安永4年(1775年)と安永6年(1777年)の二回長崎を訪れている。長崎奉行に随従したのは、二回目の訪問時である。
オランダ商館長フェイトのこと。
相談すること。
清国の商人は当時「唐人」といわれていた。唐人は長崎出島の唐人屋敷に滞在した。この事件は、『海国兵談』序文に次のように書かれている。「又安永中、小子肥前の鎮台館に遊事したりし頃、崎陽の在館唐人六十一人、徒党して乱を為たる時、吾党十五人、鎮台の令を承て相向イ、即時に六十一人を討破り、其楯籠りたる工神堂を毀て帰レリ。此時唐山人ト手詰の勝負を為て彼の国人ノ力戦に鈍キ事を親ラ試ミ知レリ。」(岩波文庫版11ページ)
討伐すること。
捕虜にすること。
うでまえ。本領。
国土のこと。
人を恐れさせる強大な力。
「あごを動かす」という意味で、物を食べる様子。
大波。
平坦な道路。
「細カに思へば江戸の日本橋より唐、阿蘭陀迄境なしの水路也。」(『海国兵談』第一巻水戦、岩波文庫版18ページ)この警句は『海国兵談』の中で最も有名な文章である。
ロシアのこと。「オロシャ」と読んでもよい。
遠い隔たり。
国家の支出を削減する。
海辺。
高くて平らな、四方を見渡せる建築物。もちろん大砲を設置すれば「砲台」となる。
とりで。
同じものが、整然と並んでいる様子。
『孫子』(軍争篇)の語で、我が軍はゆとりをもって守りを固くし、遠くから来て疲労している敵軍の来襲を待って、討ち取るということ。「逸」は「佚」に作る本もある。
天下。ここでは日本国のこと。
外国の侵略。
おおげさに言うこと。
売名。自己宣伝。
幕府の評議。
「梓」は版木。幕府は『海国兵談』の版木を没収した。「毀つ」とは破壊すること。
「蟄居」のこと。出仕・外出を禁じ、一室に謹慎させる処分。
寛政4年(1792年)。壬子は「みづのえ・ね」
閑院宮とは、光格天皇の御父君、典仁(すけひと)親王のこと。「贈諡」とは、死後に諡(おくりな)をたてまつること。光格天皇は父君に「太上天皇」の尊号をたてまつろうとし、寛政元年に幕府に通達したが、幕府は異議を唱えてこれを阻止し、中山愛親ら公家数人が幕府から処罰される事態に発展した。これを「尊号事件」という。「尊号事件」は寛政元年(1789年)に起こり、林子平蟄居の年(寛政4年、1792年)に決着している。
当時、「寛政の改革」に当たっていた、老中筆頭、松平定信公のこと。
朝廷のこと。
夫婦喧嘩。「衽席」とは寝る場所。
本来「野蛮人」を意味するが、ここでは西洋人のこと。
禁錮せられるに及んで。
「親も無し、妻無し、子無し、板木無し、金も無けれど、死にたくも無し」という歌。
何の束縛もなく、自由気ままに楽しむこと。
「ときどき」くらいの意味。
武田信玄や、上杉謙信など、一家だけの兵法を研究すること。
ここでは、「役に立つ」くらいの意味。
行ってきた所。「あしあと」が原義。
きみたち。
郷里。
仙台は太平洋に接しており、海は東側になるので「東海」と言った。金華山沖では、ツチクジラが捕れた。
「童蒙」は幼く無知な子供。『童蒙訓』という名前の書物(北宋の呂本中の撰)もあるが、ここでは特定の本ではなく、子供用の道徳的な内容の書物のこと。
日常。平生。
重要なことも、それほど重要でないことも。
林子平と同じく寛政三奇人の一人である、高山彦九郎(たかやま・ひこくろう、1750-1793)のこと。当サイトに頼山陽の「高山彦九郎伝」がある。
同じく寛政三奇人の一人、蒲生君平(がもう・くんぺい、1768-1813)のこと。当時荒廃していた天皇陵を調査して『山陵志』を著した。「前方後円墳」の語は彼が作った。また、ロシア南下を憂えて「不恤緯」を著した。
大納言中山愛親(なかやま・なるちか、1741-1814)のこと。亜相とは、大納言の別称。前出の尊号事件に関わった公卿である。
志気が非常に上がって、興奮すること。
天下太平であること。
「万一」は「ばんいつ」と読んでもよい。外国の侵略に対して、「神風が吹く」という万分の一にも満たない可能性に期待するばかりで、何の備えもしないのか、ということ。
「行装」というのは、旅の服装や荷物のこと。それらが非常に粗野で、子平には無礼に感じられた。蒲生君平が林子平を訪ねたのは、23歳のときである。
貧乏書生。貧乏な読書人をさげすむ言葉。
人品が卑しいこと。
いなかの老農夫ということ。「いなかもの」とあざける言葉。「田舎郎」「田舎奴」とも。
東の国境。
「鄂虜」とはロシアのこと。ロシアは、寛政4年(1792年。「海国兵談」絶版の年、すなわち林子平没年の前年)にラクスマンが根室に来航して通商を要求し、文化元年(1804年)にはロザノフが長崎へ来た。ここではロザノフの来航を指している。
老中のこと。
刑罰を赦免されること。子平は死後に特赦が与えられた。天保12年(1841年)のことであった。
「姪」とは甥のこと。天保13年(1842年)、林子平の甥にあたる林良伍(珍平)が、子平の墓を建てた。
もともと、墓に土をかけて供養の意をあらわすこと。ここでは墓を建てたこと。
天保13年(1842年)。壬寅は「みづのえ・とら」。
伝記の末尾につける評論を「論賛」という。「外史氏曰く」、「論に曰く」、「賛に曰く」、「評に曰く」などとして、評論を加える。
この人は、父隼人とともに涌谷伊達家(旧亘理氏)の儒学者で、林子平と交流があった。
(仙台の野崎さんのご教示による)
学ぶという意。
性格。
こころが広く、公明正大で率直なこと。
つつしみぶかく厳格であること。
「隠居」と同じく、もともと山野に隠れ住んで、世間と交わらないこと。ここでは、「ひっそりと暮らしていた」くらいの意味。
男子の尊称。貴殿。
外出する、くらいの意味。もともとは旅に出ること。
朋友と同じ。ともだち。
きばらしをすること。
和歌。「月と日の、かしこみなくば、折折は、人目の関も、踰ゆべきものを」という和歌。
一歩も、という意。
門の中にある庭のこと。ここでは、家の敷地から一歩も出なかったこと。
2002年10月13日公開。