日本漢文の世界

姓・号 齋藤 竹堂(さいとう ちくどう)
生没年(享年) 文化12年(1815)-嘉永5年(1852) (38歳)
諱(いみな) 馨(かおる)、または維馨(いけい)
字(あざな) 子徳(しとく)
通称 順治(じゅんじ)
雅号 竹堂(ちくどう)
謚(おくりな)  
出身地 仙台
師の名 大槻平泉
官職等  
代表的著作 竹堂文抄(3巻)
竹堂詩抄(2巻)
伝記:

 竹堂は、仙台藩出身で、藩学養賢堂で大槻平泉に師事し、のち江戸に出て昌平黌に学んだ。江戸では、大槻磐渓、羽倉簡堂らと交友し、また関西の斎藤拙堂、篠崎小竹らとも交流があった。仙台から母と妻を呼び寄せ、江戸で私塾を開いて、名声を得た。これを聞いた仙台藩から儒員として招かれた。ところが、行く直前に病に倒れ、わずか38歳で病没した。二人の兄がいたが、その兄たちも若くして江戸で客死している。
 竹堂は背が低く、誠実そうなな様子なので、その学識に気づく人はまれであった。竹堂の持論を聞き、文章を読んではじめて、皆おどろいて尊敬したという。
 斎藤竹堂の略伝を、仙台の野崎さんが送ってくださいました(2002年3月12日)。以下に主要部分を掲載させていただきます。

『涌谷町史』などから書き出した齋藤竹堂先生の略伝をお送りします。齋藤竹堂(維馨) 字は土徳、通称は順谷。奥州遠田郡沼辺村(現在の宮城県田尻町)生。涌谷伊達家の儒臣坂元玄岡、仙台藩校養賢堂の大槻平泉に学び、江戸に上り増島蘭園に学ぶ。次いで昌平黌に入学し、嘉永三年、江戸神田相生町に塾を開き儒学を講じた。嘉永5年没、38歳。
 著作に伊達藩祖政宗の事績を書いた『藩祖実録』、伊達騒動の忠臣涌谷公伊達安芸を顕彰した『盡忠録』、阿片戦争の紹介『鵜片始末』、西洋各国の歴史を紹介した『蕃史』。旅行記『鍼>盲録』、『報鍬録』など。
 開国論者に大きな影響を与え、明治以後『竹堂詩抄』、『竹堂文抄』など遺作が多数出版された。

2002年1月14日公開。2002年3月17日野崎さんのメールを追加。2003年4月29日一部修正。

ホーム > 名家短文集 > 齋藤 竹堂(さいとう ちくどう)

ホーム > 名家短文集 > 齋藤 竹堂(さいとう ちくどう)