日本漢文の世界


高山彥九郎傳現代語訳

高山彦九郎伝

頼 山陽
 高山正之(たかやま・まさゆき)は、上野(こうづけ=群馬県)の人である。字(あざな)を彦九郎という。家は代代農家であった。正之は生まれつき聡明で、読書を好み、大義を理解していた。色白で、気性は荒かった。眼光は射るようで、声は鐘のように大きかった。そして、非凡な節操を持っていた。
 母親が死んでから三年のあいだ、正之は母の墓のそばにほったて小屋を作ってそこに住み、粥さえ十分に食べないで喪に服したので、骨と皮ばかりの枯れ木のようになった。このことがお上の耳に達し、表彰しようという動きもあった。しかし、その地方の風俗は、ばくちや訴訟を好むあらっぽいもので、正之は体裁ぶっていると誤解されて憎しみを買い、官憲に誣告されて、牢屋に入れられた。看守は正之に食物を与えたが、正之は食べようとはしなかった。
 正之は釈放された後、家を出てあちこちへ旅行し、豪傑たちを訪ねて交際した。江戸の人、江上関龍、豊前(ぶぜん=福岡県)の人、梁又七らがもっとも親密な友人となった。天明四年(1784年)、飢饉のため、あちこちで盗賊が跋扈し、上野(こうづけ)も危ない状況になっていた。正之は奮起した。
「おれの故郷を、盗賊などにあらされてたまるか。」
 正之は帰郷して、盗賊を鎮圧しようと思い、関龍に別れを告げた。関龍は力を貸そうと言ったが、正之は断った。関龍は、くさりかたびらを正之に贈って壮行した。正之はそれを着て一人上野へと向かったが、板橋の宿場まできたときには、すっかり夜になっていた。二人の男が橋の上で、向かい合って寝ていた。うつぶせに寝ているので、尻のところがもりあがり、頭の部分がくぼんでいる。正之は困った。
「踏まずに通ることはできないな。」
 しかし、すぐに考えなおした。
「ここは天下の公道だ。それを塞ぐやつのほうが悪いのだ。踏んでもかまわん。」
 そこで、くぼんだところ(頭)を踏んで通った。踏まれた者たちは、飛び起きてどなった。
「誰だ、おれの頭を踏む奴は!」
 彼らは刀を抜いて追いかけてきた。正之は振り向き、その者たちをにらみつけて一喝した。
「うつけ者!」
 追ってきた者は、その気迫に恐れをなして、それ以上追ってこようとはしなかった。正之はそのまま立ち去った。
 上野に着く前に、立ち寄った宿屋で、酒を飲んで大騒ぎしている者たちがいた。なんと関龍、又七らである。彼らは仲間を率いて、別の道から上野へ行ったところ、盗賊はちょうど鎮圧されたあとだったので、酒を飲んで祝っていたのだ。そこへ正之がやって来たというわけで、いっしょに酔っぱらい、つれだって帰った。
 後に官憲が大盗賊の親分を捕まえたとき、その者はこんなことを言った。
「おれは、こわい奴にはついぞ会ったことはなかったのだが、板橋で追いはぎをしていたときに、背のひくい男に会った。そいつはおれをにらんで怒鳴りつけたが、その恐ろしいことといったら、今でも思い出すたびに震えがくるほどだ。」
 さて、関龍は剣の達人である。彼はいつも正之に言っていた。
「たとえ気迫で人を圧倒することができても、武芸の心得がなければ、真の英雄にはたちまちやられてしまうぞ。」
 ところが、正之はまったく取り合わなかった。関龍は正之を罵倒した。
「彦九郎は、とんだ役立たずだ。くやしかったら、おれを斬ってみやがれ!」
 正之は激怒して刀を抜こうとした。しかし、関龍は手をのばして、刀の柄を押さえ、笑いながら言った。
「やめとけ、やめとけ。」
 正之は大声で怒鳴りつづけたが、どうしても刀を抜くことができなかった。そこで、すっかり態度を改めて、剣術を学び、夜には居合を千回稽古してからでなければ、決して休もうとしなかった。
 正之はまた、文学者との交際も好んだ。孝子や義僕の話を聞けば、どんなに遠くても必ず会いに行き、彼らの話を人に説いてまわった。彼の話は、声涙ともに下る感動に満ちたもので、古今の君臣の正統性を論じては、悲憤慷慨して、まるで自分がその時代に生きて、そのことに関わっているかのようであった。
 正之は若いとき京都へ上り、三条橋の東がわで、皇居はどちらかと人に尋ねた。聞かれた人は、あちらだと指さした。正之はそのまま地面に正座すると、その方角を伏し拝んで言った。
「草莽の臣、正之でございます。」
 野次馬が、正之のまわりにあつまり、あざわらったが、正之はまったく気にもとめなかった。また、正之は京都郊外へ行ったときには、足利尊氏の墓の前で、尊氏が天皇家に対して犯した罪を数え上げて大声で尊氏を責め、尊氏の墓石を三百回も鞭打った。
 正之はこのように、人の悪を見ればまるで仇のように憎んだ。当時、一人の権力者(田沼意次)が私利をむさぼっていた。幕府内外でこれに対する不満が渦巻いていたが、誰も口に出して言うものはなかった。正之は同志の者たちと語り合っていたとき、涙をぬぐって言った。
「公方様は、何もごぞんじないのだ。このうえは、反故をつなぎ合わせて紙の幟をつくり、東照宮の前で同志を募れば、すぐに千人ばかりの者が集まるだろう。そうすれば、あの野郎(田沼)に天誅を下すくらい訳はないのだ。」
 聞くものは、あまりのことに耳をふさいだ。その後、不正はすっかり除かれた。そして、不正をさばく命令が出るたびに、正之はたいへん喜んで、晴れ晴れとした顔になった。
 正之の交際範囲は非常に広かった。大名に招待されたときも、あえて辞退はしなかった。当時大きな政治権限をもっていた一人の大名(松平定信)のところに招待されたとき、二人の洗いざらしの粗末な衣服を着けた童子が、接待の用事をした。大名はその童子たちを指さして言った。
「この子らに、教訓してやってはくれんか。」
 正之はためらった。
「いや、ためらわずに言うてくれい。余にあやまちがあるならば、聞きたいのじゃ。」
「さようならば申し上げたきことがございます。先年あるところで、父の敵討ちをした兄弟がございました。ところが、お上は、この兄弟をほかの罪人同様に護送したのでございます。これでは民をみちびくことはできません。どうかこのような場合には、特別のご配慮をいただきとうございます。」
 大名は感謝して言った。
「たしかに、あれはまずかった。今後は気をつけよう。」
 正之はこのように世間で重んぜられ、それでも一本筋をとおして、権力者にも阿諛追従することはなかった。
 しかし、正之は関東では志を遂げることができなかった。そこで西へ旅行して筑後(福岡県)までやって来た。ある関所を通過しようとしたとき、関所の役人が正之をしかりつけて足止めした。正之は宿に帰ってから、自分の腹に刀を突きたてた。宿の主人は驚いてその理由を聞いた。しかし、正之は答えようとしない。主人は言った。
「私は先生をここにお泊めいたしましたが、先生は自刃しようとしておられます。もし先生が亡くなられて、ほかに何の証拠も無ければ、役人が来て検分をするときに、何といって説明すればよいものでしょうか。どうか、命をお断ちになるのは、しばらくお待ちいただきたい。」
 正之は言った。
「わかった。」
 正之は刀を腹に刺したままで、夜中まで激しい調子で話しつづけた。役人がやってきて、ろうそくを手に調べながら、なぜ自殺するのかとまた聞いた。正之は答えなかった。しかし、役人はなんとか答えてくれと迫った。
「ちょっと、気が触れただけだ。」
 そういうと、正之は刀を腹から抜き、また一尺ばかり突き刺して死んだ。
 死にのぞんで、言い残すことはないか、と宿の主人がたずねた。
「天下の豪傑たちに伝えてくれ。さらば、達者でな、と。」
 彼が死んだとの知らせは、京都、江戸、大阪の三都に伝わったが、誰も彼が自殺した理由を知るものはなかった。
 ある者は言った。
「関所の小役人に辱められて、憤激のあまり死んだのだろう。」
 関龍は言う。
「おれは、数人の者を罵って試したが、ほんとうにおれに斬りつけようとしたのは正之だけだったよ。あいつは思いきりよく人を殺せる男だ。思い切りよく自殺しても不思議ではない。」
 又七はこれを聞いて言った。
「いやいや、彦九郎は夢の中で何か感ずることがあったのさ。あいつは夢のことでも死ぬことができるような奴だったんだ。」
 
 私は幼少のころ、父からよく彦九郎の話を聞いた。父は三都の間を往来するうちに、何度も彦九郎と会っていたのだ。彦九郎の生まれ故郷は新田郡細谷村というところで、南北朝時代には南朝に所属していた地域である。彦九郎が義理を好んだのもそういう縁故があるかもしれない。
 正之はかつてある者と話していたとき、後醍醐天皇が隠岐から伯耆(ほうき=鳥取県)へお逃げになった事が話題になり、地名の読み方が議論になった。正之は言った。
「おれは以前二回も伯耆へ行っていて、地名も土地の人に読み方を聞いて知っているよ。」
 議論の相手はぐうの音も出なかった。正之は、このように何ごとにも正確であった。
 父は正之の伝記を作ろうとしていたが、果たさぬうちに亡くなってしまった。私は最近、ある人が正之のことを書いた記事を読んだのだが、それには正之のことをまるで叛徒のように書いてあった。これはまったくの濡れ衣である。そこで、私は父から聞いたことを書いたのだ。

2002年8月31日公開。