高山彦九郎先生皇居望拝の像(京阪三条駅前) 2001年8月11日撮影
尊王派の草分けとして名高い、高山彦九郎(1750-1793)の伝記です。
高山彦九郎は名を正之、字を仲縄と言います。彦九郎は通称です。勤王家として知られ、日本全国を周遊したのですが、どのような思想をもち、どのような活動をして、何故自殺したのかなど、いまだによく分かっておらず、謎の多い人物です。京都の京阪三条駅前に、皇居を遥拝している彦九郎の有名な像があります。
山陽先生は、父親の頼春水から彦九郎の話をいろいろと聞かされており、この文章は、その聞いた話がもとになっています。
大盗賊を一喝してひるませ、権力者にもきちんと意見を述べ、武術の必要を悟るや毎日千回も居合の稽古をするなど、巧みな叙述から彦九郎の人柄がほうふつとしてきます。
この文章の魅力は、何と言ってもその格調の高さにあります。まるで史記列伝を読んでいるようです。げんに史記の語彙があちこちに用いられております。
群馬県太田市(高山彦九郎の故郷)に、「高山彦九郎記念館」があり、充実したサイトをつくっておられます。( http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/ )
仙台の野崎さんから、つぎのようなメールをいただきました。(2002年3月15日)
山陽先生が書けなかった事は彦九郎が三条大橋越しに見た御所の築地は破れ、中の灯火が見えたこと。「幕府の横暴に朝廷はここまで困窮しておられるのか。ああ勿体ない」と伏し拝んで涙したという事です。
幕府を批判してはまずかった。それでも息子の頼三樹三郎が安政の大獄で処刑されてしまいます。
もう一つは京都に上がった武士は東山の寺院や祇園には自由に行けましたが、幕府は朝廷を警戒していましたから一般の武士は余程の要件がない限り三条大橋を越えて西の御所に近づくことはできなかったのだとか。これは当時の人の常識だったので書いていないのです。
2001年8月5日公開。2002年3月17日修正。