日本漢文の世界



姓・号 賴 山陽(らい さんよう)
生没年(享年) 安永9年(1780)-
天保3年(1832) (53歳)
諱(いみな) 襄(のぼる)
字(あざな) 子成(しせい)
通称 久太郎(ひさたろう 後に きゅうたろう)
雅号 山陽(さんよう)、三十六峰外史(さんじゅうろっぽうがいし)
謚(おくりな)  
出身地 安芸(広島県)
師の名 尾藤二洲、菅茶山
官職等  
代表的著作 日本外史(22巻)  (岩波文庫に訓訳版(全三巻)、中公バックス『日本の名著28 頼山陽』に抄訳版)
日本政記(16巻)  (岩波の日本思想大系49『頼山陽』に訓読・標註つきで収録)
通議(3巻)
日本楽府(1巻)  (PHP文庫から渡部昇一氏が『甦る日本史 頼山陽の日本楽府を読む』(全三巻)という優れた注釈書を出されています。)
山陽遺稿(10巻)
肖像:

賴山陽 日本漢文の世界

伝記:

 山陽は、のちに広島藩の儒臣となった頼春水が大阪にいたころ、その長男として生まれた。
 幼時より神童といわれ、18歳で江戸に遊学し、昌平黌に入ったが、一年で帰藩。政治的・文化的中心地の江戸で成功できなかったことは、大きな痛手となった。20歳で最初の結婚をしたが、21歳の時、窮屈な家庭に我慢できなくなったため(森田思軒の説)か、神経症の発作(中村真一郎の説)のために、脱藩を企てて出奔し、京都で逮捕され自宅内の座敷牢に監禁となる。翌年、22歳の時、長男餘一(聿庵)が生まれた。最初の妻・淳子はその直後に離縁。26歳で監禁を解かれたが、廃嫡となった。
 山陽は、監禁中から『日本外史』の著述をはじめ、その後20余年にわたって心血を注いだ。このころ日本最初の商業ジャーナルともいわれる菊池五山の『五山堂詩話』に山陽の詩が紹介されるなど、次第に名が世間に知られた。
 文化6年(1809年)30歳のとき、備後の菅茶山(かん・ちゃざん)の廉塾に後継者として迎えられた。このころ『日本外史』の原稿が完成し、意気軒昂であったため、廉塾に安住できず飛び出してしまい、文化8年(1811年)32歳のときに京都で私塾を開いた。
 脱藩事件や廉塾からの出奔という若年期における問題行動は、世間から「不孝者」とレッテルを貼られる原因となり、漢文学が儒教道徳と不可分と考えられていた当時においては、大きな痛手となった。
 京都では儒者として、揮毫の潤筆料や、弟子からの講義料で生活を立てた。京都の儒者の生活は、江戸の儒者が大概大名の儒臣であり、そうでなくても出入りの大名家や旗本家に進講して定期収入があったのとは異なる困難があった。しかも、当初は偏狭な京都の学会に受け入れられず、孤高を貫かざるを得なかった。山陽は、潤筆料を稼ぐため、積極的に旅行したので、各地に逸話が残っている。しかし、いつまでも貧乏であったわけではなく、蓄財にも気を使ったので、晩年には鴨川西岸の水西荘を買い取って「山紫水明処」を建てるなど、ある程度の贅沢を楽しむことができた。
 文化12年(1817年)梨影(りえ)と再婚。支峯、三樹三郎、お陽の三子が生まれた。
 文化13年(1816年)2月、『荘子』を講義中に父・春水の危篤の報に接し、昼夜兼行して帰郷したが、死に目には間に合わなかった。これより以後、『荘子』の講義は一切せず、当時儒者の間でも珍しかった三年の喪に服した。
 翌文政元年、広島にて父の三周忌を済ませてから、弟子の後藤松陰を伴い九州旅行に赴いた。この旅行では「雲か山か・・」の歌い出しで有名な「泊天草洋」など多くの詩を作っている。また、九州各地に著名な学者らを訪問して詩文の応酬をし、名所を見物した。帰京後に耶馬溪の風景を描いた「耶馬溪図巻」は、水墨画の代表作である。また、「耶馬溪図巻記」の文章により、「耶馬溪」は名所として世に知られるようになったといわれ、山陽の名づけた「耶馬溪」がもとの山国谷(やまくにだに)という地名に取って変わったという。
 文政5年(1822年)、43歳のとき、京都へ来て六度目の家となる水西荘へ転居した。水西荘は鴨川のほとり、丸太町大橋の北側、東三本木通にあった。文政11年(1828年)に水西荘を増築し、離れの「山紫水明処」が建てられた。「山紫水明処」は現在も当時のままに保存されており、国の史蹟として(財)頼山陽旧跡保存会が管理している。
 文政10年(1827年)、当時写本で行われていた『日本外史』の評判を聞いた楽翁公・松平定信が礼を尽くして求めたのに応じ、「上楽翁公書」を作って写本と共に進呈した。楽翁公が序文を賜ったことにより、山陽の文名は一層高まった。しかし、『日本外史』が各種の版で出版されてベストセラーとなったのは、没後のことである。 『日本外史』は、維新の志士たちに愛読され、維新以後も、明治・大正・昭和を通じて、繰り返し出版され、当時の国民文学となった。
 天保3年(1832年)6月喀血し、9月23日に没。死の直前まで『日本政記』を完成しようとして懸命の努力をしたが、終わりの方は完成できず、論文の間にはさむ記事は、石川君達(関五郎)に託して書かせた。享年53。その天才を遺憾なく発揮するためには早すぎる死であった。
 弟子に女流詩人で名高い江馬細香がいる。細香との間には恋愛があり、山陽は結婚を申し込んだが細香の父親に断られたといわれている(徳富蘇峰)。文章家として名高い塩谷宕陰や大槻磐渓も若いとき山陽のもとに寄宿している。ほかには、古参の弟子で九州へも同行した後藤松陰、行状を書いた江木鰐水や、『日本外史補』を著した岡田鴨里、『竹外二十八字詩』で有名な藤井竹外らがいる。森田節斎も弟子を自称しているが、山陽の友人・篠崎小竹は、節斎は数篇の文章の添削を請うただけの関係にすぎず、弟子と称する資格はないといっている。
 主著『日本外史』は、少ない史料をもとに独力で作ったものであり、文学的潤色もあるため、史実に誤りが多いとされる。また『外史』の史論は、新井白石の『読史餘論』の剽窃である(塩谷宕陰・田口鼎軒)との批判もある。しかし、興味深いエピソードを多く載せる『外史』の面白さは、今日の歴史小説に通じるもので、『外史』流行の原因は何よりもこの面白さにある。また、『読史餘論』の卓越した史論を発見し、敷衍したことは、凡儒が陳腐な史論を繰り返していたなかで精彩を放つものであった(森田思軒)。そして何よりも、『外史』の精彩ある文章は、叙事詩とも称すべきものであり、わが国の漢文学史上第一の傑作である。
 山陽には『書後題跋』という評論集があり、これにより山陽が批評家として卓抜した技量を有していたことを知ることができる。批評家・評論家としての山陽を顕彰したのは、徳富蘇峰である。
 山陽に関する評伝は、森田思軒著『頼山陽及其時代』(明治31年、民友社)がもっとも理解が深い。思軒の親友であった徳富蘇峰の『頼山陽』(大正15年、民友社刊)もすぐれている。坂本箕山『頼山陽』(大正2年敬文館刊)は、山陽に関する事実を網羅した百科的記述を志すもので、書簡や文章、詩を多く引用している。中村真一郎著『頼山陽とその時代』(昭和46年、中央公論社刊)は箕山の志を継ぎ、同時代の文人たちを漏れなく紹介することを目指している。
2001年8月5日公開。

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