日本漢文の世界


岩倉公所藏正宗鍛刀記現代語訳

岩倉公所蔵の名刀正宗

川田 甕江
 右大臣岩倉公は私を呼び出し、一振りの名刀を見せながら言われた。
「私はふだん贈り物は一切断っている。しかし、この名刀は忠臣から贈られた物だ。だから受け取って、彼の功績を世に広く知らせようと思う。そのための文章を作ってほしい。」
私は「かしこまりました」と言ってひざまずくと、その名刀がどういういきさつで岩倉公のもとにあるのかをお尋ねした。すると岩倉公は、
「そこに坐りなさい。話して聞かせよう。」と、語り始められた。
 
 戊辰戦争のとき、官軍(朝廷軍)は江戸へ向かっていた。将軍徳川慶喜は、すでに謹慎の意を表して門戸を閉じ、朝廷の処分を待っていた。しかし、幕府の兵士らは官軍を迎え撃とうと大騒ぎで、もはや彼らの勢いを抑えることはできなくなっていた。
 そのとき、幕府軍に山岡鉄舟という者がいた。勇者である。命がけで将軍慶喜公をお守りするとて、幕府の軍事総裁・勝海舟に相談した。勝が鉄舟の案に同意したので、鉄舟は急いで西へ向かった。
 このとき、有栖川宮親王殿下が、官軍の征討総督として静岡の駿府城に駐留しておられ、薩摩藩の西郷隆盛が軍事参謀の職にあった。官軍の先鋒はすでに川崎に到達していた。鉄舟は、その軍門のそばを馬で馳せすぎながら、大声で名乗った。
「われこそは朝敵、山岡鉄舟である! 急用あって総督府に行かねばならぬ。ゆえに一言申しておく!」
「朝敵」とは、「国賊」というのも同じだ。官軍の兵士たちは胆をつぶして仰天してしまい、誰も鉄舟を止めようとはしなかった。
鉄舟が小田原まで来ると、官軍の斥候をしている騎兵たちが集まっている。そして、「幕府の賊兵どもが、甲府で兵を挙げた。」と、小田原中が大騒ぎになっていた。
その翌日、鉄舟は駿府城で西郷隆盛と会見した。鉄舟は言った。
「西郷殿は軍事参謀の職に就いておられるが、人を殺したいとお考えか、それとも乱を鎮めたいとお考えか、お聞かせ願いたい。」
隆盛は言った。
「もちろん、乱を鎮めたい。」
「それならば、公方様は朝廷の処分をただお待ち申しあげており、生死さえも朝廷の命のままであると申し上げているにもかかわらず、なおも兵を進められるのは何ゆえか。」
「甲府で官軍と幕府軍が交戦している。これは朝廷の命に背く行為だ。」
「あれは逃亡兵どもの寄せ集めにすぎない。公方様とは全く関わりなきこと。それに、法に背けば討伐し、従えば許すのが礼法の定め。礼法を無視するお積りならば、この上申すことは何もない。一死もって公方様に殉ずるのみ。旗本八万騎の中で、死を恐れぬのは、この鉄舟だけとお思いか。天下は大いに乱れますぞ。」
隆盛は鉄舟の気迫に気おされて、居住まいを正した。
「少少お待ちいただきたい。最近、静寛内親王(将軍家茂夫人、皇女和宮)と天璋太夫人(将軍家定夫人、島津斉彬の娘)のお二人が使いの者をよこして、とりなしを訴えて来られた。しかし、その使いの者どもは、すっかり怖気づいていて、言葉もしどろもどろでした。貴殿は、彼等とは訳がちがって、話の通じるお方だとお見受けしました。」
 そこで、隆盛は有栖川宮親王に拝謁して、命令を出していただいた。その中身はこうだ。
「忠誠を表わすには、次の五つの事を実行せよ。一つ、江戸城を明け渡すこと。二つ、武器を引き渡すこと。三つ、軍艦を引き渡すこと。四つ、兵士を江戸市中から郊外へ移すこと。五つ、将軍慶喜公を備前岡山藩に幽閉すること。」
 鉄舟は言った。
「御趣旨は謹んで承りました。ただし、公方様を幽閉せよとの一件だけは、死んでも従うことはできません。再考をお願いしたい。」
「これは朝廷のご命令だ。口を挟む余地はない。」
「人はみな主君のために働くものではございませんか。もし逆の立場で、貴殿のご主君・島津公が不幸にも罪を問われたとしたら、貴殿はご主君をみすみす他人の手に渡されるのか。」
隆盛はしばらく考え込んでしまった。
「鉄舟殿の言われることにも一理ある。ご主君が助かるように、私も手を尽くしましょう。」
 そして、二人は盟約を交わした。隆盛は鉄舟の背中をポンとたたいて言った。
「まったく勇敢なお人だ。虎穴に入って虎子を探るとは、貴殿のことだ。生きて帰るつもりがないのは承知しているが、徳川氏の運命は貴殿一人の身にかかっている。どうしても生きて帰ってもらわねば困る。」
 隆盛は鉄舟に通行証を渡して帰らせた。
 鉄舟は馬に鞭打ち東へ馳せ帰り、品川に到着した。ところが官軍の守備兵が誰何して、銃口を馬の首に向けた。鉄舟は通行証を出して守備兵に見せ、無事に江戸市中に入ることができた。
 勝海舟らはたいへん喜んで、大通りに高札を掲げ、不安におののく江戸の市民を安心させた。官軍は江戸征伐を中止し、静岡藩を新設して、徳川慶喜の養嫡子家達(いえさと)を駿府に移封した。それで、徳川氏も安泰となり、江戸の百万市民も戦禍に巻きこまれずにすんだ。
 その後十年あまりしてから、徳川家達は、鉄舟の功績に報いるため、この名刀を贈った。しかし鉄舟は、「これは私の功績ではない。朝廷の寛大な措置によるものだ」とて、この刀をこの岩倉に寄贈してきたのだ。
 
 私は、岩倉公の話をじっと聞いていたが、思わず立ち上がって申し上げた。
「閣下は、鉄舟の人柄を愛され、それがゆえにこの刀をも愛される。なんともうるわしきことです。」
 この名刀は、刀身の長さ二尺四寸四分、幅は九分一厘、厚みは二分弱である。刀身の両面には血流しの溝があり、その溝は、柄の中に入るなかごの部分からはじまり、刃先の一寸九分手前で終わっている。鋭利な刃物は玉をも切り裂くというが、刀身がきらりと冷たく光るのを見ると、ゾクッとして背筋も凍るような思いがする。なかごの部分は、長さ五寸七分二厘、広さ一分六厘である。根元の方はたっぷりと太く、上の方は細くなっており、二つの穴が空けてある。下の穴は直径二分、上の穴は直径一分六厘である。柄とさやには白木が用いられ、「宮本武蔵の正宗。代金五千貫。貞享二年三月六日、紀伊中納言が献上。」などと三十字あまりの字が書きつけられている。この刀は、相模の国(今の神奈川県)の刀工、藤原正宗が作ったもので、かつて武芸者・宮本武蔵の所持品であった。これを、紀伊藩主が購入して幕府に献上したと伝えられている。武家政権時代には兵器を尊んだので、大事な贈り物には必ず名刀を用いるようになった。刀の値打ちは、刀工に真贋を鑑定させ、価格を記載して決めていた。五千貫といえば、たいへんな値打ち物である。
正宗は不世出の名工で、元弘・建武のころの人である。当時、皇室は中興したが、まもなくして再び天下は乱れた。そのため、正宗の名刀は、謀反人に使用されることも多かった。岩倉公がこの前例をいましめとされて、今の平和の世に戊辰東征の苦渋をお忘れにならないならば、この名刀は岩倉家の家宝にとどまらず、天下の宝剣となる。もっとも尊重すべき宝物である。
 以上、明治十六年の紀元節に、宮内文学・従五位の川田剛が謹んで記録いたしました。

2002年8月31日公開。