日本漢文の世界

姓・号 川田 甕江(かわた おうこう)
生没年(享年) 天保元年(1830)-明治29年(1896) (67歳)
諱(いみな) 剛(ごう) (「つよし」と読むという説もあります)
字(あざな) 毅卿(きけい)
通称 竹次郎(たけじろう)、城之助(じょうのすけ)、剛介(ごうすけ)など
雅号 甕江(おうこう)
謚(おくりな)  
出身地 備中(岡山県)浅口郡阿賀崎村
師の名 藤森天山、山田方谷など
官職等 松山(高梁)藩儒、東京帝国大学教授、文学博士、東宮侍読など
代表的著作 随鑾紀程(8巻)
文海指針(4巻) 清人の名文10篇を選び、論評を加えたもの。これには重野博士も序文を寄せています。
日本外史辯誤(未刊。川田家に稿本が秘蔵されているという。頼山陽の『日本外史』の誤りを詳細に指摘したもの。大久保利謙「川田剛博士の『外史弁誤』について」『大久保利謙歴史著作集7』吉川弘文館、247頁以下に巻一の部分が紹介されている。 )
伝記:

 甕江は幼くして両親を失い、伯父に育てられた。蔵書を売って学資を作り、江戸へ遊学して、貴顕の家で家庭教師をしながら苦学する中に、次第に名声があらわれ、山田方谷の紹介で、備中松山藩(現岡山県高梁市)の儒臣となり、藩主板倉公から信頼された。
 鳥羽伏見の戦いに際して、藩主板倉公は老中としてはただ一人京都に在った。甕江は不明となった藩主の消息を得るため、変装して東奔西走し、ついに函館に隠れていた藩主の奪還に成功した。また、明治維新に際して藩の存続のためにもっとも尽力したのは甕江であった。
 維新後上京し、安井息軒、芳野金陵ら老大家の知遇を得たことから、甕江の文名はますます高まった。明治8年、修史局に出仕し、一等編修官となるが、同僚の重野成斎との間に確執があり、明治14年に宮内省に移った。同年、明治天皇の東北巡回に扈従を命ぜられ、『随鑾紀程』を著した。その後、貴族院議員等を歴任し、晩年には東宮侍読、宮中顧問官を務めた。
 文章を善くし、明治漢学界では重野成斎と並び称せられる。死の直前には贈位、叙爵の話もあったが、出身藩である松山藩が「朝敵」であるとの理由で山縣有朋が反対し、その話は立ち消えになったという。(三浦叶『明治の碩学』、汲古書院、はしがき)
 明治29年(1896年)、67歳で没。歌人の川田順は甕江の子息である。
2001年8月5日公開。2003年4月29日一部修正。

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