日本漢文の世界


岩倉公所藏正宗鍛刀記解説

 この文章の主眼は、岩倉公が所蔵している正宗の名刀の由来となった、山岡鉄舟の忠烈を顕彰することにあります。
 山岡鉄舟は、主君徳川慶喜を救うため、敵陣を「朝敵山岡鉄舟であるぞ!」と大声で名乗って馳せぬけ、大西郷を相手に一歩もひかず、ついに主君を守りぬきました。そして、西郷をして、「徳川家の命運は君の身にかかっている」とまで言わしめたのです。
 この文章のクライマックスは、いうまでもなく西郷と山岡の対決にありますが、甕江先生は、その詳細を岩倉公から直接聞いて、そのままを迫真の筆致で記録しました。そして、この貴重な記録によって、山岡鉄舟の江戸城無血開城時における勲功が世に顕れたのです。
 
(※参考)この文章は、山岡鉄舟の勲功を伝えるものとして、たいへん有名なものですが、実は次の(A)(B)の両種のテキストが存在しています。各種書籍へ引用は(A)が多いようです。
(A)当サイトで紹介しているテキスト。このテキストは、戦前の中学校用漢文教科書の中で最もポピュラーなものといわれる簡野道明の『新修漢文』巻三(明治書院)、および服部宇之吉の『服部漢文新読本』巻四(冨山房)、同『漢文新読本』巻四(冨山房)に採用されたもので、もっとも流布しております。
(B)北海道大学にある写本のテキスト。最近ある方が、北海道大学に保存されているこの文章の写本(謄写人・阪本則弘)のコピーを送ってくれました。その写本は非常にすばらしいもので、末尾には依田学海、三島中洲、中村敬宇、森鴎村の四人による批評があり、また、依田学海、三島中洲の二人は眉批(欄外上段に書き入れる寸評)と圏点を加えています。これによって、甕江先生は(B)のテキストを知友に回覧して批評を乞うていたことが分かりました。なお(B)のテキストは、漢文教科書では宇野哲人の『漢文新撰』巻四(宝文館)に採用されています。
 
 以下に両テキストの違いを示します。両者の違いは、ほとんどが字句の推敲に属するものですが、(タイトル)と、(7)(15)(17)にやや顕著な違いが見られます。ただ、甕江先生の文集は刊行されていないため、(A)(B)のどちらが最終稿であるかは、にわかには決定できません。(2004年6月追記)
(タイトル)
A 岩倉公所蔵正宗鍛刀記
B 正宗鍛刀記
(1)
A 慶喜捐軀解難
B 慶喜棄軀解難
(2)
A 先鋒諸隊已達川崎
B 先鋒諸隊已達河崎
(3)
A 遁兵嘯集
B 遁兵嘯聚
(4)
A 且夫無刑而伐之、服而舎之、是為有禮。君不執禮、吾復何言。吾有死耳。
B 夫無形(刑の誤り)而伐之、服而舎之、謂之有禮。君不執禮、吾復何言。吾在(有の誤り)死耳。
(5)
A 抑麾下八萬騎
B 抑而麾下八萬騎
(6)
A 頃者静寛内親王・天璋太夫人
B 頃静寛内親王・天璋太夫人
(7)
A 曰、致城、曰、致戎器、曰、致軍艦、曰、移兵士於郊外、曰、幽主帥於備藩。
B 其一、致城、其二、致戎器、其三、致軍艦、其四、移兵士於郊外、其五、幽主帥於備藩。
(8)
A 唯幽主一事
B 唯出主一事
(9)
A 好漢、入虎穴探虎子。
B 好漢、入虎子。(おそらくは誤脱)
(10)
A 安房等大喜
B 安房大喜
(11)
A 移封慶喜嗣子家達於駿府
B 封慶喜族人家達於駿府
(12)
A 府下百万生霊、亦免肝脳塗地
B 府下百万人家、亦免兵燹
(13)
A 遂帰余焉
B 携来示余、遂見贈焉
(14)
A 剛聞之、起拝曰
B 剛聞此語、起拝曰
(15)
A 紀伊藩主、購獲以獻之幕府。
B 家達十四世祖大将軍秀忠、贈之紀伊藩主徳川頼宣、頼宣子光貞復献於幕府。
(16)
A 昔者武臣秉政
B 當時武臣秉政
(17)
A 明治十六年紀元節、宮内文学従五位川田剛謹記
B 明治十六年紀元後三日、宮内文学従五位川田剛謹記

2001年8月5日公開。2004年6月27日一部追加。