日本漢文の世界


繫思談序語釈

繫思談(けいしだん)

翻訳小説の題。「繫思」は原作であるリットン卿(Edward Bulwer Lytton)の最後の小説「ケネルム・チリングリ(Kenelm Chillingly)」の頭文字KCを音訳したもの。「繫思」の文字は「思いを繋(つな)ぐ」というロマンチックな連想を惹起する。ヴィクトリア朝の英国小説は、人名を題名としたものが多く、これもその一つである。この小説は、当時のベストセラー小説で、発売日だけで三千部以上売れたといわれる。内容は、ケネルム・チリングリという人物の生涯を描いたもので、作者リットン卿の理想を描いたともいわれている。『繫思談』の翻訳がどのようなものであったかについては、徳田秋声が『明治小説文章変遷史』第二章において紹介しているが、森田思軒らの周密体(稠密体)と呼ばれる翻訳文体のさきがけとなった作品とされている。翻訳は正確を期したものであり、挿絵も当時日本に滞在していたフランス人画家ビゴーに依頼するなど、それまでの安易な翻訳物とは一線を画そうとしていた。

藤田(ふじた)鳴鶴(めいかく)

明治初期の新聞記者・政治家である藤田茂吉(1852‐1892)のこと。郵便報知新聞の主幹をへて、明治15年に立憲改進党結成に参加し、衆議院議員に2回当選を果たしたが、明治25年に病死した。『文明東漸史』の著者として有名。

李頓(リットン)

Edward George Earle Lytton Bulwer Lytton(1803‐1873)。ヴィクトリア朝時代の英国の政治家・通俗小説家で、『ポンペイ最後の日(The Last Days of Pompeii)』などの作品で知られる。政治家としては植民地担当大臣の経歴がある。

健年兒(ケネルム)(へん)

『繫思談』のことをしゃれて別名をつけて呼んでいる。健年兒(ケネルム)は小説の主人公の名前。

名卿(めいけい)

名声ある貴族。

侯爵(こうしやく)

実際にはリットンは「侯爵(marquess)」ではなく 「男爵(baron)」。

廊廟(らうべう)

朝廷(ここでは国会)のこと。政治を行う場所。

聲名(せいめい)

声望と名誉。

一世(いつせい)

世の中の人人がこぞって、という意。「挙世」とも。

震蕩(しんたう)

ゆりうごかすこと

煥然(くわんぜん)

輝かしい様子。

詞致(しち)

ことばのおもむき。

精麗(せいれい)

精緻でありかつ麗しい。

才藻(さいさう)

詩文を作る才能のこと。

兒女(じぢよ)

ここでは子供のこと。

翁媼(をうあう)

おじいさんとおばあさん。年寄りのこと。

工人(こうじん)

職人。

縉紳(しんしん)

地方の紳士(名声ある人)。

千情萬態(せんじやうばんたい)

これは「千万の情態」というのを「互文」の技法で入れ替えた表現。

奇思(きし)

奇抜な思想というほどの意味。

貫線(くわんせん)縱横(じうわう)

小説の筋が自由気ままに書き綴られていることを、道路が東西南北に広がっているさまに譬えた。

(でう)

筋道。一見自由に書かれている小説だが、その話の運びには筋道がある、系統立ててある、ということ。

時弊(じへい)

その時代における弊害や災難。

()むる

矯正すること。

化工(くわこう)

自然に出来上がること。造化のしわざ。

任俠(にんけふ)

気骨があり、人助けを喜ぶ性格。

神超思逸(しんてうしいつ)

「神思(精神)が超逸(超然として脱俗している)」というのを「互文」の技法で入れ替えたもの。

譯筆(やくひつ)

訳文の風格。

論及(ろんきふ)

ほかのことを論じているうちに別の問題にまで議論が及ぶこと。

本領(ほんりやう)

技能。うでまえ。

校書(かうしよ)云々

ここでは、風流な登場人物が堅苦しい議院のことなどを論じて、それなりにさまになっていること。それはちょうど、校書(本の校訂)など出来そうにもない美人にそれをやらせてみると、実は得意技だったというような具合である。「校書」については、唐代の薛濤(せっとう)という妓女が詩文をよく理解し、元微子(げんびし)の前で本の校訂をしたことから、妓女のことを「校書」と称するようになったという故事がある。

慷慨(かうがい)云々

これも上の「校書」と同じ。「青楼」というのは、美女の住む屋敷(もう少し俗な言い方をすれば「妓楼」)のこと。そこで、悲憤慷慨して政治の議論をすること。これも風流中に国事を論ずることを言っている。

2008年11月23日公開。