姓・号 | 巖谷 一六(いわや いちろく) |
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生没年(享年) | 天保5年(1834)- 明治38年(1905) (72歳) |
諱(いみな) | 修(しゅう) |
字(あざな) | 誠卿(せいけい) |
通称 | |
雅号 | 一六(いちろく)、古梅(こばい)、呑沢山人(どんたくさんじん)、金粟道人(きんぞくどうじん)等 |
謚(おくりな) | |
出身地 | 近江(滋賀県) |
師の名 | 中村栗園 |
官職等 | 一等編輯官、修史局監事、内閣大書記官、元老院議官、帝国制度取調委員、錦鶏間祗候 |
代表的著作 | 一六遺稿(2巻) |
伝記: 明治書道界の大御所の一人。 巖谷一六は、水口(みなくち)藩の侍医の家に生まれ、父の没後、16歳のときに母とともに京都に出て三角東園に医術を学んだ。帰藩後は藩の侍医として勤務する傍ら、藩儒・中村栗園に漢学を学んだ。 慶応4年より明治新政府に出仕し、それからは官吏として、一等編輯官、修史局監事、内閣大書記官、元老院議官、帝国制度取調委員を歴任し、ついには錦鶏間祗候(きんけいのましこう)となった。 明治24年、貴族院議員に勅選された。 書は初め中沢雪城に菱湖(りょうこ)流を学び、さらに趙子昂(ちょうすごう)を学んだ。明治13(1880年)に楊守敬(ようしゅけい)が来朝すると、日下部鳴鶴、松田石柯と共に、彼から六朝(りくちょう)の書風を学び、大いに悟るところがあった。一六の書風は「一点の俗気なし」と称揚されている。 「一六」の号は、明治の初め、役所では一と六のつく日(1日、6日、11日、16日、21日、26日)が休みと決まっており、役所が休みの日は、隠居(居士)と同じだということで、「一六居士」と号した。明治6年に暦法が変わって、役所が土曜日は半ドン、日曜日は休みとなった後も、「四捨五入したら、休みの割合は同じだ」として、「一六居士」の号を使い続けた。(友人・斎藤竹海の『一六居士説』による。)ちなみに、唐宋八大家の一人・欧陽脩(おうよう・しゅう)の号は「六一居士」である。 児童文学者・巌谷小波(いわや・さざなみ、1870-1933)は三男。 | 2008年11月23日公開。 |