閣龍傳
安積艮齋
閣龍は、意太利亞部中の爇努亞の人也。性敏慧にして大志有り。航海の術を嗜み、諸州を歴遊す。凡そ瀛海・港嶴・嶋嶼・暗礁・淺沙、船舶の通ずる所、鯨鰐の窟する所、諳悉せざるは莫し。時人之が語を爲して曰く、「閣龍の海路は、前に古人無く、後に來者無し。」と。閣龍此を以て自ら多とぜず、益其の術を精究し、寝と食とを廢す。毎に言ふ、「茫茫たる堪輿は、其の際測る可らず。然るに極東諸州の域は、今已に開創して殆ど盡きぬ。但極西には未だ國土有るを聞かざる也。吾將に一葦を西溟に泛べ、千古未闢の邦を檢出せん。」と。其の志氣の壯なること此の如し。
然れども家徒四壁のみ。大舶を裝すること能はず。嘗て本州の官廳に詣りて之を説く。是の時西洋諸國、主として疆を拓き地を得ることを以て要と爲す。故に姦狡にして奇貨を邀むる者、動もすれば輒ち航海の策を獻ず。國主深く其の荒唐に懲りて聽さず。閣龍乃ち葡萄牙に至りて之を請ふ。亦允されず。轉じて伊斯巴泥亞に入りて之を説く。王妃智にして慈。其の篤志を憫み、一萬六千金を賜ひて、之を佽助す。
乃ち明應元年を以て開帆し、針路西に指す。已に行くこと三十四日、四顧茫茫として、惟だ天と水とのみ。一點の黒痣をも見ず。舟人意大に沮み、皆閣龍を罵りて曰く、「今自り三日にして、一邦土を得ずんば、當に汝を海に沈めて、鮫鰐に委ね、以て憤を漏さん耳。」と。閣龍神色怡然として、屬吏をして檣竿に上ら令め、且つ之を戒めて曰く、「汝邦土有るを見ば、須く大聲を發すべし。」と。既にして檣上より絶叫す。衆抃舞し、歡聲雷の如く、閣龍を環りて拜せり。亟かに其の地に造れば、果して一大國を得たり。乃ち北亞墨利加洲也。
嗣後西洋人其の奇功を豔み、爭ひて是の邦に抵る者、歳に益多し。是に於て南北亞墨利加は、大抵西人の占據する所と爲り、而して七竅皆鑿たるるに幾し。
閣龍既に復命す。王妃喜ぶこと甚しく、擢んでて亞墨利加總管と爲す。閣龍能く其の域を闢けりと雖も、而も未だ物情に通ぜず。叛亂尋で起る。國王別將を遣して之を治め、閣龍を本州に還し、寵遇故の如し。後又亞墨利加に抵り、曠土を開墾し、民を遷して聚落を成さしめ、其の物産を審にして還る。時に王妃卒す。閣龍知己の恩を感じ、悲みて自ら勝へず。未だ幾ならずして病を發して死せり。年六十一。實に西洋紀元千五百六年、皇朝の永正三年也。
閣龍既に蓋世の勲を建つるや、國人多く之を媢む。一客有り、閣龍に謂ひて曰く、「子の新邦を檢出せしは、亦僥倖耳。何ぞ道ふに足らん乎。」と。閣龍曰く、「然り、子請ふ試に雞卵を几に卓てよ。」と。客曰く、「能はざる也。」と。閣龍乃ち卵を取り、其の尖を挫きて、之を几に卓つ。客曰く、「此の如くんば則ち我も亦之を能くせん。」と。閣龍笑つて曰く、「然り、但世人此に意を注がず。故に能はざる爾。儻し能く意を注がば、何の難きことか之有らん。吾が亞墨利加を檢出せしが若きも、何を以て此に異ならん哉。」と。
2002年6月30日公開。