Christopher Columbus(スペイン名はCristóbal Colónクリストバル・コロン、1451-1506)。アメリカ大陸を発見した航海者。中国では、「哥倫布」と音訳している。わが国の古い文献では「閣龍」の二字を当てる。
中国では「意大利」(古くは「義大利」)とする。
ジェノヴァ(Genova)。英名ジェノア(Genoa)。中国での表記は「熱那亜」。コロンブスはジェノヴァの毛織物業者ドメニコ・コロンボの子として、1451年に生まれたことが、公証人文書に記されている。(岩波新書『コロンブス』13ページ)
敏捷で聡明であること。
大海。
みなと。普通は「港澳」と書く。「嶴」と「澳」は通じる。「嶴」は音「イク yù」。
「浅沙」とは英語のsand, 「海中砂堆」のこと。沿岸に潮流などで出来る砂の暗礁。潮流によって時々刻々と位置を変える危険な暗礁である。 (仙台の野崎さんのご教示による)
クジラやワニ。
「窟」は、洞穴のこと。普通は名詞だが、「洞穴に住んでいる」という動詞として使っている。
ことごとく諳記していること。
「空前絶後」という意味の決まった言い方。
こまかく調べること。
「寝食を忘れる」こと、すなわち一所懸命の努力を形容する語。「廃寝忘食」とも。
広大無辺な様子。
天地。
「辺際」というのと同じで、「はて」のこと。
欧米から見た東のはて、つまり日本・中国・韓国等を指す語。中国語では「遠東」と言う。
初めて開くこと。この地球の大部分がすでに航海しつくされており、西方だけに処女地が残されている、ということはコロンブスを西へ向かわせた一つの理由であった(『コロンブス提督伝』34ページ)。ちなみに、バルトロメウ・ディアスによる喜望峰発見は1488年、バスコ・ダ・ガマによるインド航路発見は、1498年である。
小舟のこと。
西の大海、すなわち大西洋。
むかしから一度も開拓されたことがないこと。
しらべて見つけ出すこと。
家の中に四方の壁しかない。非常に貧乏であることをいう決り文句。
大きな船。
用意すること。
ここでは「本国」という意味。
官庁。行政機関。
国土のこと。当時ポルトガルとスペインは領土獲得競争をしていた。
ずるがしこいこと。
またとない珍奇な宝物のこと。ここでは、「うまいもうけ話」という意味。
でたらめ。
ポルトガル(国名)。この音訳は日中共通。コロンブスはポルトガル国王ジョアン二世との交渉に失敗し、1484年同国を後にし、カスティリャ(現在のスペイン)に入った。(『コロンブス提督伝 』71ページ)
スペイン(西班牙)のこと。当時のスペインは、カスティリャ王国の女王イザベルとアラゴン王国の国王フェルナンドの夫婦による共治体制で、カスティリャ・アラゴンはまだ一つの国にはなっていなかった。イザベル、フェルナンドはイベリア半島から回教徒のグラナダ王国を追い出したので、「カトリック両王」と呼ばれている。
カスティリャの女王イザベルのこと。カスティリャ・アラゴンの共治体制では、強国カスティリャの女王イザベルが主導権を握っていた。コロンブスの航海事業もイザベルが認可した。(『コロンブス提督伝』80ページ)
女王が宝石を売って金を作ったという物語もあるが、実際にはコロンブスびいきの有力者、サンタンヘルとピネリが用意した140万マラベディと、アラゴン王国の国庫から拠出された35万マラベディ、ジェノバ商人たちの投資による25万マラベディをあわせた200万マラベディが、資金として供与された。(文庫クセジュ『コロンブス』48ページ、岩波新書『コロンブス』41ページなど)。
たすけること。
西暦1492年。コロンブスはこの年の8月3日にパロス港からカナリア諸島へむけて出発し、9月6日カナリア諸島を後にして西を目指した。(『コロンブス提督伝』82、88ページ、『コロンブス航海誌』13、17ページ)
出帆すること。「開航」「開船」ともいう。
船の針路。中国語では「航路」「航向」という。
カナリア諸島を後にした1492年9月6日から34日目、すなわち1492年10月10日。
見渡す限り、広広とした海ばかり。
ほくろのこと。ほくろのような小さな島さえ見えなかった。
水夫。
意気沮喪すること。失望のあまり、やる気がなくなってしまうこと。「船隊の全員にとって、今回のこのような航海は初体験であった。陸地からこんなにも遠く離れて、もはや救援される見込みがない、ということが分かってくるや、恐れおののくようになった。」(『コロンブス提督伝』91ページ)
「コロンブス提督伝」や「コロンブス航海誌」にはないが、1492年10月10日、コロンブスは2,3日中に海岸が見えなければスペインへひきかえすとまで約束しなければならなったといわれる。それほど、事態は緊迫していた。(文庫クセジュ『コロンブス』71ページ)
サメやワニ。「もし提督が引き返す気でないなら、海へ投げ込んでしまえ!」等の発言が出るほど、乗組員達の不平・不満がつのっていた。(『コロンブス提督伝』95ページ)
恨みを晴らすこと。「洩憤」「泄憤」ともいう。
表情も顔色も、落ち着き、よろこばしげな様子。コロンブスは、乗組員の不平不満がつのる中で、「さらに情熱的に、一方ではあたかも死を恐れないように振る舞」った。(『コロンブス提督伝』95ページ)
部下の役人。
帆柱のこと。実際には、コロンブスの船(サンタマリア号)の物見やぐらは、帆柱の上ではなく船尾にあった。(『コロンブス航海誌』36ページ)
手を打って喜び踊ること。非常に喜んでいる様子。
熱烈な歓呼の声は、雷の音のようだった。「歡聲雷動」ともいう。
北アメリカ大陸。アメリカ大陸は、中国語では「亞美利加洲」。コロンブスは正確にいうと、北アメリカには達していない。彼が発見したのは、西インド諸島である。第4回の航海のとき、コロンブスはヨーロッパ人として初めて中央アメリカの大陸沿岸に達した。ところが後発のアメリゴ・ヴェスプッチが、自分が大陸発見者であるかのように宣伝したので、新大陸の名称は「アメリカ」になった。
それより以後。
非凡な功績。
力ずくで奪取し、我が物にしてしまうこと。
「七竅」とは、両目、両耳、両鼻孔、および口のこと。七竅がうがたれるとは、荘子内篇応帝王第七にある有名な話で、「混沌(コントン)」にもてなしてもらった「儵(シュク)」と「忽(コツ)」がお礼として、のっぺらぼうの「混沌」に七竅をあけてやったところ、「混沌」は死んでしまった、というもの。ヨーロッパ人によるアメリカ大陸侵略によって、コロンブスが「楽園」と呼んだ豊かな自然と、原住民の生活は破壊された。これについては、つとにラス・カサスが断罪している(『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫)。しかし、1537年に羅馬教皇パウルス三世が、邪蘇教徒以外の人間も「真の人間(Veros homines)」であると宣言した後も、原住民に対するひどい扱いは続いた。
命令された仕事をなしとげたあと、報告すること。コロンブスが第一回の航海を終えてスペインのパラス港に到着したのは1493年3月15日であった。その後陸路バルセロナへ向かい、4月中旬に到着し、両王に報告した。(『コロンブス提督伝』167ページ)
長官。コロンブスが得た地位は「海洋提督、発見地すべての副王・長官」というものだったが、これらは航海成功後に与えられたものではなく、航海前に両王との間で契約を交わしていたものである。(『コロンブス提督伝』78、81ページ)
アメリカ(西インド諸島)の区域。コロンブスはエスパニョーラ島に殖民し、そこを拠点に更に奥地を探検した。
事物の実情。道理。コロンブスは航海者としては疑いなく天才だったが、行政官としては無能であった。
コロンブスの統治したエスパニョーラ島では、1495年以後頻発した原住民の叛乱のほか、1498年の司政官ロルダンの叛乱、1500年のオヘダによる叛乱などが相次いで起こった。これらは、コロンブスの行政能力の欠如によるものであった。
1500年、両王はフランシスコ・デ・ボバディリアに司法権と王室財産管理権を付与して、エスパニョーラ島に派遣した。
ボバディリアはコロンブスを捕らえて鎖につなぎ、本国へ送還した。これは悪意によるもので、コロンブスは鎖を解こうという船長の申し出をしりぞけ、鎖につながれたままカスティリャに帰還した。(『コロンブス提督伝』352ページ)
特別に目をかけた待遇。両王はコロンブスの鎖を直ちに解かしめ、彼の監禁は自分達の意思ではないことを明言した。そして、コロンブスの特権を再確認した。しかし、両王は一方で、新長官オバントをエスパニョーラ島へ派遣して秩序回復にあたらせ、コロンブスには第4回航海の往路、エスパニョーラ島へ寄港することを禁じ、事実上はコロンブスから行政権を取り上げた。
広い何もない土地。
荒地を切り開くこと。
村落のこと。コロンブスの第4回航海は、「香料諸島」へ抜ける海峡探索を目的としたものだったが、はからずも中央アメリカのホンジュラス海岸に到達することになった。この航海では、一箇所居留地を建設しようとしただけで、本格的な殖民はしていない。
艮斎は、このあたりは、実際よりも良く書いている。
死ぬこと。ただし、ここは女王(この文では「王妃」)なので、「崩」(または「薨」)としてもよい。イザベル女王の死は、1504年11月26日で、コロンブスの帰還からわずか19日後のことである。
自分のことをよく理解してくれたことに対する恩義。コロンブスの航海事業は、イザベル女王の理解があったからできたことである。女王崩御後の1505年5月、宮廷に参上したコロンブスに対して、フェルナンド国王は冷淡であったという。(『コロンブス提督伝』441ページ)
コロンブスの死は1506年5月20日である。彼の生年を1446年とする従来の説によれば、61歳で死んだことになる。しかし、この語釈の冒頭に紹介したように、現在では彼の生年は1451年とされているので、死んだ年は55歳ということになる。
わが国のこと。
成就したことが、群を抜いており、当代一であること。
「子」は男子の尊称。貴殿。
意外な成功。思いがけない幸運。
「几」は小さなテーブル。なお、「つくえ」の歴史的仮名遣いは、「つくゑ」ではなく「つくえ」である。
「さき」と読んでもかまいません。卵の殻のとがった部分(あたまと尻があるが、ここでは尻のほうだと思われる)。
砕いてつぶしたこと。
「何難之有」は、倒置形。普通の語順では「有何難(なんの、かたきことか、あらん)」または「何有難(なんぞ、かたきこと、あらん)」となるところが、疑問詞「何」に引かれてこのような倒置がおこる。「之」は便宜上「これ」と読むが、「これ」という意味はなく、倒置形であることを示す。
2002年6月30日公開。2002年8月31日一部追加。