日本漢文の世界


養老公園碑現代語訳

養老公園碑

依田 学海

養老公園碑
養老公園碑。
2013年9月20日撮影。
 明治13年、国内は安定し、官民ともに富み栄え、(西南戦争等の)諸問題はすべて解決していた。
 そこで、岐阜県多芸群の有力者たちが相談して、公園の設置を政府に要請した。これは陛下の人民とともに楽しむとの御意をお受けしてのことである。この年の10月に公園が完成すると、有力者たちは、県の役人や、名士、金持ちを集めて盛大な宴会を開き、落成の式典を執り行った。
 そもそも、養老元年(西暦717年)に元正天皇が多度山に行幸して菊水泉をご覧あそばされ、その翌年再びこの地に行幸あらせられた。その二十数年後に聖武天皇が伊勢に行幸されたとき、道を変えて美濃に入り、菊水泉をご覧あそばされた。そのときにお伴を申し上げた大伴東人と大伴家持が天皇に献じ奉った歌が万葉集に載っている。
 ああ、この御二方の天皇が、貴い御身でありながら、けわしい山道をへて行幸あそばされたのは、旅行のためや、珍しいものをご覧になりたいお気持ちを満たすためではなく、神秘的な名勝を探し出し、人民とともに楽しもうとの御心からであられた。
 この地には、木木が青青と茂り、草花がところどころに咲いている。岩石は険しさはないが、つややかで力強い。滝は激しくはないが、滝壺は広くて深く、水は冷たく澄んでいる。高台から望み見れば、連山が幾重にも重なり緑色があふれているところが、美濃と伊勢の二国である。北東の方向は、見渡す限りの平野に田畑が営まれている。村落や林の間に見え隠れする練り絹のきらめきは揖斐川、長良川、木曽川の三大河川である。(これほどの景勝地であるから)天皇の行幸が歴史に刻まれるのも当然である。
 宝暦年中に、地元の岡本氏がこの地に千歳楼を建築し、ゆっくりくつろげる場所にした。(よき季節には)時期を違えずに全国から旅人が集い、(千歳楼や養老の景勝を)愛でた。千歳楼の名声が天下に広まって百数十年になる。
 (年月を経て)家屋は壊れ、柱は傾いており、さらに樹木の剪伐や雑草だらけの道路で、御二方の天皇の行幸の御跡を尋ねるすべもなかった。そこで、老紳士たちが相談して数千円の金を拠出し、大規模な工事を行った。荒廃した家屋を修理し、橋を架け、草花を植え、川を流れるようにした。建物の梁や、あずまやの手すりを修理し、傾きを直し、欠損した部分は新調した。明治13年1月に着工し、10月に竣工した。これは陛下の御恩徳によるものであるが、もし有力者たちの働きがなければ実現はありえなかったのだ。
 明治18年7月、私は京都へ赴いた帰りに養老山に登り、千歳楼に3日間逗留した。当時「観瀑記」を作って養老のすばらしい景色について述べたが、公園設立については触れていなかった。
 それから13年を経た今、有力者たちは碑を建立して公園設立の功績を記すことを企て、私に文章の作成を依頼してきた。
 ああ、各郡県はこぞって公園を設置し、素晴らしい景色で有名なところばかりである。しかし、一千年以上前の行幸の遺跡を保存している公園は養老公園だけしかない。銘文を作って、これを伝えないわけにはいかないであろう。

銘文にいわく:

多度山は、草木がしげり、うるわしく、
養老の泉の水は、お酒のようなおいしさだ。
菊水の泉は清く冷たく、真夏には氷を噛むようで、
病気や痛みを癒し、二日酔いをも覚ましてしまう。
天子の巡行で、ふしぎな場所は世にあらわれ、
天子のおほめの言葉は、古典に光をはなっている。
民間の書物には、美濃の孝子の話が伝えられている。
親のために、うまい酒をこの泉で汲んだという。
その話がうそか本当か確かめようとしてはいけない。孝子の誉れは、永遠に伝わる。
人倫にかかわることで、田舎者の大法螺ではない。
公園が初めて設置され、みながにぎやかに楽しんでいる。
山には縁起の良い霧がかかり、泉からは不思議な水滴が湧き出してくる。
よくあそび、憩うがよい、このすばらしい古い遺跡で。
いまここに銘文をつくり、永遠に石に刻む。

2014年11月15日公開。