日本漢文の世界


養老公園碑解説

 平成25年(2013年)9月20日、台風通過の直後、私たちは養老公園を訪れました。目的は、依田学海による『養老公園碑』と、養老の滝を見るためでした。

養老公園芝生広場
養老公園芝生広場。
2013年9月20日撮影。
 現在の養老公園は、総面積78.6ヘクタールの岐阜県営の広大な都市公園です。
養老鉄道養老駅
養老鉄道養老駅。孝子の酒にちなんで、ひょうたんで装飾されています。
養老鉄道では、電車内に自転車を持ち込むこともできます。
2013年9月20日撮影。
 大垣駅で養老鉄道に乗り換えて、養老という駅で降り、少し山手に上っていくと、目の前に広大な公園が広がっています。公園は、山のふもとから養老の滝まで続いており、ふもとの方には、広大な芝生広場、ゴルフ場、遊園地、「天命反転地」と名付けられた巨大なアート建築などの施設があります。川づたに山を上がっていく道には、お土産店が並んでおり、途中に「ふるさと会館」という孝子伝説を紹介する会館があります。さらに登ってゆくと、養老の滝に到着します。
養老の滝
養老の滝。
2013年9月20日撮影。
 ふもとから、養老の滝までは、歩いて30分ほどですが、滝付近の急峻な坂道には観光リフトも設置されているので、足の悪い方でも観光することができます。滝までの道のりは、簡単です。川沿いの一本道を滝のほうへ登っていけばよいのです。坂道を登りきると、滝は突然目の前に現れます。ごうごうと水しぶきをあげていますが、よく見ると滝壺がなく、滝の水は岩に打ちつけられているので、滝の周囲十数メートルにわたって自然のミストが充満しています。夏季には非常に涼しい場所です。
 滝の前には小さな広場が整備され、ベンチで休憩することもできます。
養老の滝
養老の滝。滝前の広場から望む。
下から登ってきた人たちは、まず滝の写真を撮ります。
2013年9月20日撮影。
 

 有名な養老の孝子伝説とは次のようなもので、昔話としておなじみです。
孝子源丞内像
養老駅前に建つ孝子源丞内像。
2013年9月20日撮影。
 元正天皇の御代に、美濃の国に貧しい孝子がおり、きこりを職業として、老いた父親を養っていた。この父親が酒好きだったので、孝子は、ひょうたんを腰にぶら下げ、酒屋へ行って酒を分けてもらっていた。
 ある時、孝子は山で薪を取ろうとして、苔むした石につまづいて転んだが、そのときふと酒の香りがした。不思議に思って周囲を見渡すと、石の中より水が流れ出ており、水の色が、まるで酒のようであった。汲んで舐めてみると、なんと素晴らしい酒である。孝子は、喜んで、この日から毎日この場所で酒を汲み、父親に飲ませていた。
 元正天皇はこのことを聞こしめされ、霊亀3年9月に養老へ行幸し、酒が出た場所をご覧になった。そして、泉の水が酒に変わったのは、孝子の親孝行に天地が感応して、その徳をあらわしたものであろうと、たいそうご感心遊ばされた。そして、のちに孝子を美濃守に任命されたのである。
 酒の出た場所は、養老の滝というところである。これにより、同年11月に年号を「養老」と改められたのである。(『十訓抄』を現代語訳して引用。)
 『養老公園碑』は、独力で発見するのは、ほぼ不可能と思われます。まず、広大な養老公園のどこにこの碑があるのかさえ分からず、途方に暮れることになります。
 私たちも自力での発見は最初からあきらめ、碑の探索に出かける前に養老公園事務所に立ち寄り、碑がどこにあるのかお尋ねしました。公園事務所では、2人の職員が親切に対応してくださり、地図のコピーまでいただきました。私たちが『養老公園碑』にたどり着くことができたのは、公園事務所の職員さんたちのおかげです。感謝いたします。
元正天皇行幸遺跡
元正天皇行幸遺跡。
2013年9月20日撮影。
 碑は、千歳楼の敷地続きにある不老ヶ池のほとり、元正天皇行幸遺跡と道を挟んだ反対側の広場にひっそりと建っています。左側には、千歳楼の創設者である岡本喜十郎の顕彰碑がありました。碑文を確認しようとして碑に近づくと、クモの巣に遮られました。ここを訪れて碑文を読む人はほとんどいないのでしょう。碑の保存状態は良好で、拓本を取ることもできそうでした。碑の上部を覆うように生えた大木が、碑を風雨から守ってきたのだと思います。
養老公園碑
養老公園碑(左側)右側は千歳楼の創設者・岡本喜十郎の顕彰碑。
碑の後ろにの樹木があり、その裏の道を挟んだ向こう側が
元正天皇行幸遺跡である。
2013年9月20日撮影。
養老公園碑
養老公園碑。松方正義公爵の題字(篆書ではなく楷書で書かれている)。
2013年9月20日撮影。
 碑文に記されているように、養老公園は明治13年10月17日に太政官令によって造成されました。これは、地元の有力者たちの寄付金により行われた工事でありました。中でも江戸時代に創設された地元の有名旅館・千歳楼の修復工事は、地元有力者たちの悲願であったようです。当初の養老公園は、おそらく滝から千歳楼周辺までを整備したものであろうと思います。公園設置後の明治18年に、碑文の作者・学海先生は当地を訪れて千歳楼に3日間逗留し、『観瀑記』(滝を観るの記)を作りますが、公園のことには触れていませんでした。それから13年後の明治31年、養老の有力者たちは公園の由来を碑に記して後世に伝えようと、かつて当地を訪れた学海先生に碑文作成を依頼したのです。碑は松方正義公爵の題字を得、明治三筆(日下部鳴鶴、巌谷一六、中林悟竹 )の一人である巌谷一六の書により建立されました。
 なお、碑文に出てくる千歳楼は、現在も昔の姿をとどめたまま営業しています。
千歳楼
千歳楼の入り口。
2013年9月20日撮影。
 
 『養老町史通史篇下』426ページ以下に、この碑について詳しい解説があります。碑文に書かれた公園造成の経緯にも触れているので、参考に引用させていただきます。
 この碑は、明治13年10月17日の養老公園開設を万世に伝える記念碑である。養老公園開設の沿革は、明治12年6月大蔵卿松方正義公が勧業普及のため岐阜県へ遊説の砌、岐阜県は公の旅情を慰めんと養老の景勝へ案内し、多芸郡の有力者を招集し勧業振興の講莚を催した。その席上岐阜県令小崎利準氏は松方公より養老公園開設の秘命をうけ、直ちに多芸郡内から柏淵静夫、柏淵拙蔵、千秋元次郎、田中四郎、日比四郎三郎、後藤三郎左衞門、足立元右衞門、渋谷代衞、安田弥兵、安田道三郎の有力者10人を選び、養老公園開設発起人を委嘱した。
 明治13年1月から県の土木技師奥富雄二郎等数名が測量にかかり、同年三月中旬に計画書が出来上ったから、県から養老公園開設願に設計書を添付して内務省へ提出した。
 その計画書によると、公園計画地域は75町8反5畝27歩で、内官有地の地種組替する分が65町7反2畝19歩、民有地を買上げて上地する分が10町1反3畝8歩であったから、この民有地の買上では発起人の負担で交渉が進められた。
 一方公園開設の資金を賄うため郡内より発起人の外に75名の人々に小崎県令から養老公園開設担当委員を委嘱し、それぞれの資産に応じ寄附金を仰付け、開設資金約5千円を集めた。
 公園開設工事は3月末起工し、同10月完工したから、養老改元の記念日を卜し、盛大に養老公園開園式が挙げられた。
 そこで養老公園の維持管理のため、小崎県令命名の偕楽社を組織し、会費年額10円の社員を100名募り、その浄財を以て養老公園の管理費が賄われ、衆智をあつめ風致を保護し、休憩飲食施設の誘致指導、桜楓の植樹など公園としての体裁整備が進められた。
 然るに養老公園開設後17年を経て明治30年頃に至って、開設発起人及び偕楽社員の多くが既に歿し、偕楽社での公園維持管理が困難になったから、遂に養老郡営に移し養老郡費を以て管理することとなった。この記念碑は偕楽社設立の時から懸案であったが果されず、養老郡営に移管後に郡費を以て建碑した。
 因に、依田百川は旧佐倉藩士、名は朝宗、学海と号す。藤森天山に学び漢学を能くす。維新後文部小書記官に任ず。明治42年1月27日歿、享年77歳。
 巌谷一六は旧水口藩士、通称は修、字は誠卿、幼名を弁二、古梅園、踏霞仙史、迂堂、金粟道人と号し、書名を一六と称す。維新後徴士議政官、権大内史、内閣大書記官、修史館監事を歴任し、正四位勲三等に叙せられ、金鶏間祇候、貴族院議員に列す。

2014年11月15日公開。