姓・号 | 依田 學海(よだ がっかい) |
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生没年(享年) | 天保4年(1833)-明治42年(1909) (77歳) |
諱(いみな) | 朝宗(ともむね)、のち百川(ひゃくせん)と改名。 |
字(あざな) | 百川(ひゃくせん) |
通称 | 七郎(しちろう) |
雅号 | 学海(がっかい) |
謚(おくりな) | |
出身地 | 千葉県佐倉 |
師の名 | 成徳書院、藤森天山 |
官職等 | |
代表的著作 | 譚海(3巻) 談叢(2巻) 学海日録(全12冊、岩波書店) |
肖像: | |
伝記: 学海は、佐倉藩の出身で、藩校成徳書院に学び、その教授となった。維新後一時文部省に奉職したが、辞職して、著述活動に専念した。 多才多芸の人で、演劇の改良などにも情熱を燃やし、川上音二郎のために脚本を書いたこともある。(『拾遺後日連枝楠』というもので、楠正儀と伊賀局を扱ったもの。)「依田南朝」と渾名されたくらい南朝の忠臣・楠公が好きで、『菊水源流』という題で少年向きの読み物を博文館の『少年世界』に連載したこともあった。(三浦叶『明治の碩学』、汲古書院、295・354ページ) 漢文の作文にすぐれ、とくに記事文にすぐれた。『譚海』はなかでも傑作で、菊池三渓の『本朝虞初新誌』と並び称される。学海は文を藤森天山に学んだ。川田甕江は同門で、甕江が没するまで誰よりも親しく交際した。その交際の様子は、日記『学海日録』に詳しく書かれている。 森鴎外も学海から漢文の添削を受けたことがある。鴎外の『ヰタ・セクスアリス』の中で、主人公(=鴎外)が15歳のときに漢文を教えてもらう「文淵先生」は、学海がモデルである。そのときの様子として「どんなに長い物を書いて持って行っても、先生は『どれ』と云って受け取る。朱筆を把る。片端から句読を切る。句読を切りながら直して行く。読んでしまうのと直してしまうのと同時である。」と書かれているが、学海の添削はまさにこのようなものだった。学海から漢文の添削を受けた人は非常に多かったが、学海自身が弟子として許したのは、杉山三郊、岡崎春石の二人だけであった。鴎外は多数の準弟子の一人にすぎない。それでも鴎外が洋行するに際しては、学海は漢文の序(「送森林太遊学伯林序」)を作って壮行している。 学海は日記を50年以上にわたって書きつづけていた。それは、和文や漢文が入り混じり、絵も入っている面白いもので、『学海日録』と題して、近年岩波書店から出版された。明治の風俗生活を知る上で貴重な資料であるばかりでなく、当時の文人の交流記録としても貴重なものである。 明治42年(1909年)、77歳で没。 | 2001年8月5日公開。 |