日本漢文の世界


太田(おほた)南畝(なんぽ)

依田(よだ) 學海(がくかい)

 太田(おほた)(ふかし)南畝(なんぽ)(がう)す。幕府(ばくふ)士人(しじん)なり。(がく)(この)文章(ぶんしやう)()くし、(かたは)遊戲(いうぎ)國歌(こくか)(つく)る。滑稽(こつけい)詼謔(くわいぎやく)村老(そんらう)野嫗(やう)(いへど)も、絶倒(ぜつたう)せざる()し。()所謂(いはゆ)蜀山(しよくざん)先生(せんせい)なる(もの)(なり)

 (いへ)老僕(らうぼく)()り、逸助(いつすけ)()ふ。質愨(しつかく)朴魯(ぼくろ)南畝(なんぽ)(これ)(あい)せり。(のち)(さづ)くるに本錢(ほんせん)(もつ)てし、(しやう)(いとな)みて(みづか)(きふ)せしむ。(しか)れども逸助(いつすけ)(ひと)()迂鈍(うどん)(やや)もすれば(すなは)折閲(せつえつ)す。(すなは)(きた)りて(あはれ)みを()ひ、(もつ)(つね)()せり。

  一日(いちじつ)(また)()(ところ)()らんと(ほつ)す。南畝(なんぽ)(わら)つて(いは)く、「(なんぢ)(れい)(したが)()()ふに(あら)ざるを()()。」と。逸助(いつすけ)(いは)く、「()(なり)(やつがれ)(いへ)(かべ)剥落(はくらく)せり。敗紙(はいし)()(これ)糊補(こほ)せんと(ほつ)す。」と。南畝(なんぽ)(わら)つて(いは)く、「(はなは)(やす)し。」と。()づから几上(きじやう)()(ところ)書幅(しよふく)(つか)みて(これ)(あた)ふ。逸助(いつすけ)拜謝(はいしや)して()で、門人(もんじん)(みち)()ふ。門人(もんじん)()(これ)()ふ。逸助(いつすけ)(こた)へて(いは)く、「主人(しゆじん)(たま)はる(ところ)敗紙(はいし)(のみ)。」と。門人(もんじん)()りて(これ)()れば、(すなは)文章(ぶんしやう)詩歌(しいか)奇思(きし)横逸(わういつ)し、(みな)平日(へいじつ)(いま)()ざる(ところ)(なり)(すなは)(はし)りて(これ)()ぐれば、南畝(なんぽ)(いは)く、「(かれ)(おのづか)(ふく)()り。子等(しら)(これ)(ほつ)せば、(しもべ)(もと)めて()(なり)。」と。門人(もんじん)(あらそ)()きて(これ)()ふ。(おく)れて(いた)(もの)は、(あるい)壁上(へきじやう)故紙(こし)(あは)せて()()りぬ。逸助(いつすけ)()りて十餘金(じふよきん)()たり。

 (いま)(いくば)くならずして、()(また)()く。盂蘭盆(うらぼん)(せつ)()ひ、逸助(いつすけ)(なう)(かたむ)けて、罩紙燈(たうしとう)(つく)り、()いて(いち)()る。()れず。南畝(なんぽ)(いた)()はんことを(もと)む。南畝(なんぽ)(いは)く、「他物(たぶつ)()()なり、紙燈(しとう)(ごと)きは(なん)(もち)ふる(ところ)ぞ。」と。逸助(いつすけ)(ひざまづ)()ひて()まず。南畝(なんぽ)(いは)く、「()紙燈(しとう)()(きた)れ。」と。逸助(いつすけ)(ことごと)(これ)(いた)す。(およ)百餘(ひやくよ)なり。南畝(なんぽ)(めい)じて(すみ)()らしめ、(うで)(ふる)ひて疾書(しつしよ)し、一燈(いつとう)(ごと)一詞(いつし)(だい)す。(したが)ひて()けば(したが)ひて(うつ)し、宿構(しゆくこう)()づるが(ごと)く、頃刻(けいこく)にして()る。(さら)報單(はうたん)一通(いつつう)(つく)る。文辭(ぶんじ)洒落(しやらく)にして、戲謔(ぎぎやく)百出(ひやくしゆつ)せり。逸助(いつすけ)(めい)(これ)諸友(しよいう)(いた)さしめ、()ふるに紙燈(しとう)(もつ)てす。諸友(しよいう)傳觀(でんくわん)し、(あらそ)ふて(これ)()ふ。尋常(じんじやう)紙燈(しとう)は、(あたひ)七八錢(しちはちせん)()ぎず。()南畝(なんぽ)()づるを(もつ)て、(たか)きこと五六十錢(ごろくじふせん)なり。遠近(ゑんきん)傳聞(でんぶん)して、(あたひ)(ばい)して(これ)(あがな)ふに(いた)れり。逸助(いつすけ)(また)()十餘金(じふよきん)()たり。

 (とき)戲文字(ぎもんじ)()くする一九(いつく)なる(もの)()り、十返舎(じふぺんしや)(がう)す。(もと)より南畝(なんぽ)()らず。()(ひと)()りを()き、(これ)()はんと(ほつ)す。()(もん)(いた)り、門者(もんしや)(えつ)(つう)ず。(ひさ)しくして()でず。一九(いつく)(ののし)りて(いは)く、「南畝(なんぽ)一賤士(いちせんし)()ぎざるも、(また)(ひと)(おご)()。」と。()はずして()る。(のち)(これ)(そと)()ひ、南畝(なんぽ)()つて(いは)く、「先生(せんせい)何爲(なんす)れぞ(われ)(くる)しめたる。」と。(こた)へて(いは)く、「吾子(ごし)何爲(なんす)れぞ(われ)(もてあそ)べる。」と。一九(いつく)(あやし)みて()(ゆゑ)()ふ。(いは)く、「(それがし)()()()くこと(ひさ)し。(さひはひ)にして()はる。一快飲(いちくわいいん)せんことを(ほつ)すれども、(たまたま)酒資(しゆし)(とぼ)し。(には)一桐材(いちきりざい)()り、(これ)造屐匠(ざうげきしやう)(ひさ)ぎ、數百錢(すうひやくせん)()たり。(かへ)りて()(もと)むれば(すなは)()し。()(われ)(もてあそ)べるに(あら)()。」と。一九(いつく)(なじ)ること(あた)はざりき。

2002年2月2日公開。