依田 學海
我が海軍、軍艦を英國提摸斯工場に造り、明治三十年六月十九日に成る。我が迴航員等之を受け、明日を以て船渠を出さんとす。廿六日、英帝行きて其の軍艦を提摸斯河口、斯毖度邊土に觀る。是より先、我が軍艦、富士と名づく。其の大にして且つ堅牢なるを以て也。乃ち往きて會す。三浦大佐艦長と爲りて、之を操縱す。
是の日、英國の軍艦來り會する者一百六十五隻、而して諸國の軍艦十有四隻。排して五陣と爲し、旗幟鮮明、帆檣天を蔽ひ、極めて壯觀と爲す。我が富士艦、稍や後れて至る。諸軍艦爭ひて之を覩る。謂へらく、東洋新造の軍艦、果して如何の操法を爲すやと。目を屬せざるは莫し。艦長三浦大佐、命じて艦を進めしむ。意に謂へらく、日東の技倆を著して、以て萬邦を服壓せんと欲するは、是れ其の時なりと。馳せて第一陣・第二陣の閒を進む。東より西に向ひ、徐に出でて碇を第十四號斯揑斯に下す。乃ち揖禮を行ひ、操縱法の如く、毫も罅漏無し。諸國の軍艦、一齊に喝采し、聲雷の如し。河水洶湧し、風あらずして波たつ。
七月一日、馳せて慕土蘭港に赴き、大砲・水雷等を裝す。十七日にして畢り、明日乃ち發す。八月廿七日、麻兒達に泊す。三十日慕土祭土に向ふ。九月三日を以て至り、蘇斯運河を過ぎんと欲す。運河は沙淤にして、極めて難路と爲す。人其の危きを疑ふ。大佐曰く、「難を冒さずんば、何を以て我が名を著はさん」と。初め大佐の蘇斯を過ぎんと欲するや、歐人勸むるに喜望峯に出ずるの利爲るを以てす。或は妬む、「巨艦を運河に通ずるは、歐人と雖も之を難ず。東洋人をして之を爲さしむるは、我が恥也」と。因りて之を沮む。大佐聽かず。蓋し胸中既已に成算有る耳。初め大佐、搭載する所の武器を卸して之を輕くせんと欲す。既にして我が艦の吃水は廿五呎八半爲り、而して運河の深さ廿五呎半爲るを知る。是に於て武器を卸さずして、炭と水とを減じ、其の吃水を淺くして、二十五呎半と爲し、一隻の船を僦ひて之を挽かしむ。一路の運河、馳するに四節乃至五節を以てして過ぐ。蓋し巨艦の運河を過ぐるは、此を始と爲す。歐人之を聞きて、其の測量の精と操縱の妙とを贊稱せざるは莫し。
爾後、亜丁・胡侖部・新嘉坡等の諸港を過ぎ、香港に至り、裝飾を施す所有り、十月廿四日を以て、臺灣・琉球諸島・四國・九州を經て、卅日、伊豆の元島の側に泊し、卅一日午前七時、横須賀軍港に入る。時に國旗高く富峯の白雪と相映じ、旭日燦爛として、海波席の如し。
富士艦、我が海軍の威を振ふ可以し。
2001年8月5日公開。