日本漢文の世界


放言集序現代語訳

放言集の序

山本 梅崖
 友人・中江兆民の新著『放言集』が上梓された。例のごとく当世の利害得失を諷刺したものだが、一読すれば大笑い、再読すれば思わずふきだし、三回読めば腹を抱えて絶倒してしまうことうけあいだ。言葉がどんどん飛び出し、奔放に展開する様には、驚くばかりだ。
 さて、兆民は酒を飲むことを使命と心得ている。毎日痛飲して酔っていないときがないほどだ。そして、自由闊達で礼儀にこだわらないのは、晋の阮籍(げん・せき)にそっくりだ。世の人人は兆民の人物と言論の奔放さを賞賛するのだが、真実の彼は人物も言論も全く奔放ではないということに気が付いていない。これは、表面だけ見て、心を見ないからである。英雄の志は、表面に現れた事跡だけを見て分かるものではない。
 阮籍はたしかに奔放な性格だったが、母親が亡くなったときには、悲しみのあまり多量の血を吐き、やせ細って骨ばかりとなり、病気になってしまった。これは真摯な性格だからこそ、そうなったわけであり、礼節ばかり重んずる輩には、到底まねのできることではない。兆民は父親が亡くなってから数年経つが、父親の命日になるたびに、我慢できずに母親の前で泣き叫んでいた。最近その母親も亡くなったが、兆民の悲しみようは、やせ細るなどと形容できるものではなかった。それこそ孟子のいう「50歳になってもまだ親を慕う」大孝行の者といわねばなるまい。奔放の度合いが強い者は、真摯さの度合いもまた強いのであろう。この『放言集』は、(奔放な言論のように見えるが、)実は事物を借りて遠まわしに世を諌めているのだ。
 今の世には、兆民の才能を活かしてくれるような、見る目のある為政者はいない。兆民のような逸材が、奔放な行動によって、いたずらに韜晦(とうかい)せざるを得ないとは。ああ、何と悲しむべきことか。

2007年7月16日公開。