日本漢文の世界


放言集序解説

 明治25年(1892年)に発刊されたといわれる中江兆民の文集『放言集』の序文です。
 『放言集』は、筑摩書房の明治文学全集13『中江兆民集』の年譜、明治25年の項に、「この年『放言集』が刊行されたらしいが未見。」とあるだけで、本当に出版されたかどうかも分からない幻の書物です。ですから、梅崖先生の『梅清処文鈔』の中にこの「放言集序」を見つけたときは、本当に驚きました。しかし、残念ながらこれは全く「大発見」などではありませんでした。実は梅崖先生は、『自由』(明治25年2月23日)にこの文章を発表していたのです。 無知な私は、岩波書店の『中江兆民全集 別巻』(171ページ)に「放言集序」があるのを見つけて、二度驚いた次第です。いつか本当に幻の『放言集』発見の朗報を聞くこともあるのでしょうか。
 この序文が書かれた明治25年は、明治22年の帝国憲法発布と帝国議会の設置を経て、自由民権運動は完全に堕落してしまっていました。かつて民権左派による「大阪事件」の首謀者の一人として下獄した梅崖先生は、民権派の堕落を見て、政治を棄てました。中江兆民も堕落した帝国議会を「無血虫の陳列場」と罵って議員の地位を棄て去り、北海道へ赴いて実業への関心を高めていました。かつて大阪で相識った二人は、同じように当時の世の中に幻滅を感じ、その後の身の振り方を模索しつつあったのです。
 この『放言集序』は、同郷土佐の天才、中江兆民の性格をよく捉えて書いています。独特で豪快な文章で有名だった中江兆民は、奇行でも有名でした。しかし、彼は奔放に見えて実は真摯だというのです。「世に伯楽無し」とは古今同歎でありますが、中江兆民は「放」によって韜晦(とうかい)せざるを得ませんでした。そして梅崖先生も、家塾で経世を説くことに専念せざるを得なかったのです。
 この文章は、典拠を多用し、字句にも凝ったところがありますが、梅崖先生が徂徠学の家柄であることも関係しているだろうと思います。
 以下、『放言集序』の『梅清処文鈔』(A)と『中江兆民全集 別巻』(B)のテキストの違いを示しておきます。
(1)
(A)吾友中江兆民放言集刻成。
(B)中江子兆民放言集刻成。
(2)
(A)蓋諷當世得失也。
(B)蓋諷當世得失以方言行之也。
(3)
(A)是以世人多稱其人之與言之放・・
(B)雖然世人多稱其人之與言之放・・
(4)
(A)蓋以求之於迹、而不求之於心故也。
(B)非求之於迹、而不求之於心之故耶。
(5)
(A)英雄之志、豈容尋迹以得耶。
(B)英雄之志、豈容以迹窺測耶。
(6)
(A)嘔血数升
(B)吐血数升
(7)
(A)兆民尊翁歿已有年。
(B)兆民大人歿已有年。
(8)
(A)不唯嘔血骨立。
(B)不唯吐血骨立之哀。
(9)
(A)安知其放之大者、非其不放之大者哉。
(B)然則其放之大者、安知非其不放之大者哉。
(10)
(A)嗚呼。世無伯樂。
(B)嗚呼。世濁時汚。
(11)
(A)欲使若兆民其人、空以放而掩。
(B)欲使君若兆民其人、空以放而掩。

2007年7月16日公開。