日本漢文の世界

姓・号 山本 梅崖(やまもと ばいがい)
生没年(享年) 嘉永5年(1852)-昭和3年(1928) (77歳)
諱(いみな) 憲(けん)
字(あざな) 永弼(えいひつ)
通称 繁太郎(しげたろう)
雅号 梅崖(ばいがい)、梅清処主人(ばいせいしょしゅじん)
謚(おくりな) 文節夫子(ぶんせつふうし = 私謚)
出身地 土佐(高知県)
師の名 松岡毅軒
官職等  
代表的著作 梅清処文鈔(二冊)
梅清処詠史(一冊)
燕山楚水遊記(二冊)
四書講義
論語私見(未刊)
伝記:

 土佐藩主・山内家の家老である深尾の家臣の家の出身。深尾家の家臣は土佐藩では士分の扱いを受けていた。
 先祖は、武田の軍師・山本勘介。梅崖の家は、学者を輩出し、梅崖はその5代目に当たる。父・竹渓は漢詩人で、安積艮斎(あさか・ごんさい)の門人であり、斎藤拙堂、大槻盤渓、頼三樹三郎らと交流があった。
 梅崖は幼時から家学を受けたが、その学問は徂徠学派であった。14歳で高知の藩校・知道館に入り、松岡毅軒に教えを受けた。明治元年(1968年)土佐藩に作られた開発館に入って英語を学んだ。明治2年(1869年)には、知道館の儒員に任じられている。
 明治4年(1871年)上京し、オランダ人ライヘ、チイエツ、チュウライらからドイツ語、英語、地理学を学んだ。明治7年(1874年)月給2円で工部省技手に任命され、明治10年(1877年)、西南の役に従軍した。
 明治11年(1878年)漢学で身を立てることを決意し、工部省を辞職。しかし、生計の都合で大阪新報記者となり、岡山稚児(ちご)新聞にも関係した。岡山稚児新聞が発禁となり、中国日日新聞となると、岡山へ赴いてその主筆となった。岡山において自由党左派の小林樟雄(こばやし・くすお)らと相識るところとなり、自由民権の論客として尽力するようになる。
 明治15年(1882年)平素の志を実現すべく、大阪天神橋に「梅清処塾」を開き、漢学の教授を始めた。しかし、自由民権運動への関与は続けていた。
 明治18年(1885年)「大阪事件」が起こる。これは、自由党左派の大井憲太郎(おおい・けんたろう)、小林樟雄らが、朝鮮の志士・金玉均(きん・ぎょくきん)らと共同して朝鮮革命を実現させようとした事件である。その前年、金玉均らは朝鮮で「甲申政変」と呼ばれるクーデター事件を起こして失敗し、日本に亡命していた。梅崖は、この事件に積極的に関与し、有名な「告朝鮮自主檄」という檄文を作った。この檄文では、朝鮮は元来自主独立の国であるのに、清国がその国権を奪って属国とし、朝貢を強いていることを嘆き、アメリカ合衆国が英国から独立したときにフランスがアメリカに加担したように、我等も大義名分のために朝鮮に加担しようと勧めている。しかし、大阪事件の本当の目的は、朝鮮のことを発端として日清間に戦争を起こさせ、その混乱に乗じて藩閥政府を除くことにあった。梅崖は檄文を書くだけでなく、志士らを塾生のように装ってかくまったが、事が露見して130名の志士らが逮捕され、梅崖も首謀者の一人として下獄した。塾が官憲によって捜索せられたとき、母堂が志士300名の連判帳を井戸の釣瓶(つるべ)に入れ、石をつけて井戸の中に沈めておいたおかげで、200名ほどの同志は助かったといわれている。(三浦叶『明治の碩学』、汲古書院、116ページ)
 明治22年(1889年)憲法発布による大赦で出獄。しかし、その後自由党の堕落を眼前にして、政治とは一切絶縁し、梅清処塾での教育に専念した。このころ、大阪事件によって先生の名声は天下に広まり、塾も大盛況で、大阪では藤沢南岳の泊園塾と並び称された。
 日清戦争後の明治30年(1897年)、清国を漫遊し、清国の名士らと会見した。その中には戊戌変法の主唱者である康有為や、曽国藩の子息・曽広詮らもいた。康有為が戊戌変法に敗れ、明治31年(1898年)日本へ亡命したときは、梅崖が世話をした。このような経緯から、清国留学生が多く梅崖の塾に集うようになった。
 明治38年(1905年)岡山県の牛窓に隠棲し、ここでも塾を開いた。大正2年(1913年)から大正15年(1926年)まで、衆議院議長であった奥繁三郎(おく・しげさぶろう)が創始した京都の漢学研究会において月1回の講演を行った。
 昭和3年(1928年)9月6日、胃潰瘍のため死去。享年77。
 梅崖の伝記としては、三浦叶『明治の碩学』(汲古書院)に、弟子・川田雪山(元早稲田大学教授)の回想がある。
2007年7月16日公開。

ホーム > 名家短文集 > 山本 梅崖(やまもと ばいがい)

ホーム > 名家短文集 > 山本 梅崖(やまもと ばいがい)