濱名湖に遊ぶ記
内田 遠湖
濱名湖は古には琵琶湖と並び稱す。琵琶は單に淡海と稱し、京師に近きを以て、又近淡海と稱す。濱名は其の距たること較遠きを以て、遠淡海と稱す。州は近江と曰ひ、遠江と曰ふは、皆此に原づく。濱名湖は、明應中、海嘯其の南涯を壞るところと為り、七十五里洋と通ず。因りて又「今切湖」と稱す。東西四里。南北五里餘。周廻二十餘里。灣澳饒し。南涯の二邑は、東に在る者を舞阪と曰ひ、西の者を新居と曰ふ。新居は即ち古の荒井也。舞阪・新居の間に辨天島有り。北涯の二邑は、西に在る者を三箇日と曰ひ、東の者を氣賀と曰ふ。其の間湖中に斗出する者を大崎と曰ふ。一灣の大崎の西に在る者を猪鼻湖と為す。一澳の東のかた氣賀に循ふ者を引佐細江と為す。而して東北細江に接し、西南大崎に對する者を佐久米と曰ふ。萬樂館在り。
昭和辛未九月二日、余歸りて濱松に寓す。一客有り。我を邀へて湖上の遊を為す。時巳牌に向んとし、小舟を舞阪北浦に艤す。將に萬樂館に抵らんとす。是の日天朗かに波恬なり。雄踏橋の下を過ぎ、村櫛邑に沿ひて行く。養鰻池有り。長さ二十町可り。舞阪の養魚池と頡頏す。遠近魚を釣る者有り。藻を採る者有り。既にして湖心に出づ。南北彌望すれば、澄波鏡の如し。天と一碧と、白帆の來往、飛鴻の滅没、目力を縱にして胸次を豁き、神氣をして翛然たらしむ。余乃ち歌ひて曰く。「一葉の扁舟に駕し、遠湖の上を泝りて游ぶ。天妃を長洲に顧み、館山を高秋に望む。纓を濯ひて以て清流に臨み、魚鰕を侶として愁ひを忘る。吁吾が心の悠悠なる、此の身の暫く休むを欣ぶ。」
舟愈北進し、礫島に到る。島は小にして一拳石の湖中に出づるが似し。故に名づく。全島巖を以て成り、翠松叢立す。中に小祠を安んず。去歳聖上井伊谷に幸したまひし時賞覽したまひし所也。乃ち舟を舎てて上り、巖に踞して遐に觀る。全湖の勝景、雙眸に萃る。灝氣人を襲ひ、浩然として神往す。是に於て客と壺を傾けて相酌み、流憩すること良久し。
復舟に投じ、少く進む。忽ち峽に遇ふ。其の口甚だ窄し。猪鼻瀬戸と稱す。此に至りて鹹水變じて淡水と為る。一怪巖有り。獅子巖と稱す。其の首半ば缺けて墮ちんと欲す。峽内は開豁なり。乃ち猪鼻湖也。時に晴空景明、湖水滉瀁、碧を涵し緑を蕩し、遠近の峰巒は、高低色を殊にす。妍美言ふ可らず。余又歌ひて曰く、「大湖盡きて小湖出で、小湖出でて獅頭缺く。獅頭缺けて猪鼻濶し。湖の口は闥を排するが如し。遠山は黛にして近山は緑。緑なる者は濃く、黛なる者は薄し。海波は渺にして湖波は蹙む。地の文は巧みに繡錯す」と。之を頃くして回航し、復湖心に出づ。東のかた引佐細江を眺む。細江は今變じて一大澳と成る。澳口の南岸には、館山寺峙ち、石壁峭立す。林麓の濃翠は、林鶴梁記す所の者此也。舟復北進し、佐久米に傃ふ。亭午萬樂館に達す。
余嘗て矢野龍溪の隨筆を讀むに、言有り曰く、「濱名の風光は、琵琶湖に勝る。唯憾むらくは環湖史蹟に乏しく、懷古の感を起こさざることを」と。余謂へらく、「龍溪其の一を識りて未だ其の二を知らざる也。濱名の橋は『三代實録』に出づ。橋本驛は『東鑑』に見ゆ。荒井・氣賀の兩關は徳川氏の初に設く。此れ其の最も顯るる者なり。本興寺は櫻花を以て稱せられ、富嶽を遙望す可し。本阪嶺は紅葉を以て著はれ、昔は姫街道と號す。鵜津山は南朝の事迹を留む。大福寺は古寶の弆藏に富む。引佐の江は源俊賴に詠ぜらる。館山の磯は僧西行に賞せらる。方廣寺は則ち聖鑑國師の開基なり。井伊谷は則ち宗良親王の據城なり。刑部は武田晴信の軍せし所為り。雄踏は徳川秀康の産まるる所為り。凡そ此の名勝舊蹟は、今皆遺存す。焉を探れば賞す可く、焉を訪へば覽る可し。噫嘻龍溪の言は過てり。若し夫れ宜しく湖を望むべき者は、則ち高石山有り。北に引佐嶺有り。浦潊の彎環・屈曲、林巒の斷續・起伏、一矚して即ち得可し。其の風光豈に琵琶湖の渺茫・平遠、曲折に乏しき者と比す可けん乎哉。
遊の翌日、萬樂館に記す。館は松林の中に在り。明治季年に建てらる。遊人憩宿の所也。
2021年1月31日公開。