日本漢文の世界


濱松城墟記現代語訳

浜松の城跡

内田 遠湖
 浜松城はけっして荘厳ではないが、英主・徳川家康公が経営に参画された城である。浜松の街はそれほど豊かではないが、東海道の重要拠点である。浜松の西側には今切湖すなわち浜名湖がせり出しており、東側には天竜川が流れ、三方ヶ原を背にして、七十里の遠州灘に臨んでいる。これが我が浜松の地勢である。古代には『万葉集』に「引馬野」(ひくまの)として記載され、『和名類聚抄』には「浜松」の地名が見える。大江匡房や源頼朝の和歌にも出てくるのは、浜松が勝景の地だからこそである。
 永正のころに三善為連(みよし・ためつら)という人がいて、初めて引馬(ひくま)に城を築いた。その後、城は飯尾氏の居城となったが、特筆すべきことはない。永禄12年(1569年)に徳川家康公が支配の拠点を岡崎から当地に移し、地名を浜松と改めた。元亀3年(1572年)に、甲斐の武田信玄の軍が大挙して侵入したが、浜松城を落とすことはできなかった。その後の6年間でさらに城と城壁を拡張した。これによって徳川氏の事業は拡張することになった。
 私は少年の時、しばしば兄に連れられて、三方ヶ原での藩士の軍事演習を見学した。そのたびに信玄軍の侵攻に苦戦した当時の状況を想像せずにはおれなかった。また物見やぐらの様子を見ては、懐古の念を起こしたものである。その後、藩主・井上正直公は上総(現在の千葉県中部)の鶴舞に領地替えになり、(浜松は徳川家の領地となったために、)徳川家の家来の者たちが移住してきた。城も城壁も日ごとに崩壊していったが、修理することもなく、堀や姫垣には霧が立ちこめ蔓草に覆われて、一面凄惨な情景であった。仰ぎ見ても天守台は木々の青々とた中に埋もれて見えづらく、その下の林もヘビなどの野生動物の棲みかになってしまったのを見れば、通りすがりの者も思わず感慨に打たれて、その場を立ち去ることができなくなってしまうのだ。
 廃藩の命令が出ると、県の役員が統治するようになり、城の堀を埋め、姫垣は撤去し、樹木を伐採した。そのため、当時の荒廃した状況はもはや見ることはできなくなった。
 私は今年(明治13年=1880年)に浜松に帰省し、城跡を見に行った。以前天守台だった場所は、老若男女が自由に見物できるようになっており、茶屋が建てられ、茶や菓子が売られている。私は手すりにもたれて南側の青い海原を見渡せば、折り重なって寄せ来る波は銀色を呈し、東側の平野を眺めれば畑が連なり、みなぎるような緑に圧倒される。心を開いて詩を作るには、よき題材となるであろう。
 浜松城は天正5年(1577年)に築城され、明治6年(1873年)に破壊撤去された。存続の期間は300年にちかい。浜松城は徳川氏と興亡を同じくし、徳川時代の終焉とともに終焉を迎えた。そして、城や堀の織りなす光景、私が少年の時に目にした情景は、みな跡形もなく消え去った。かつての英雄が残した建造物は、いまや老若男女の遊戯場と化している。これには深く慨嘆せざるを得ず、ここに浜松城の築城および廃城の事由を記して、後日検証の証拠とするのである。明治13年8月中旬。

2022年8月31日公開。