濱松城墟記
内田 遠湖
城は壮嚴に非ずと雖も、而も英主の經畫に係る。驛は殷富ならずと雖も、而も東道の要衝に當る。今切湖其の西を侵し、天龍川其の東を奔り、三方の曠原を背にして、七十里の大洋に面す。此れ我が濱松の形勢也。蓋し往古に在りては、牽馬野は萬葉集に載せ、濱松里は和名抄に著はる。江博士の咏有り、源将軍の詞有り。其の勝概以て稽ふ可き已。
永正中、三善為連なる者有り。始て牽馬に城く。後飯尾某の據守する所と為る。然るに事蹟の傳ふるに足る者無し。永禄十二年に迨んで、徳川照公岡崎自り徙り治め、名を濱松と改む。元龜三年冬、甲師大擧して來り侵す。拔く能はず。後六年更に城郭を構ふ。是に於て徳川氏の業始て盛なり。
余の少なる也、屢家兄に從ひ、藩士の三方原に演ずるを觀る。未だ嘗て當時苦戰の状を想見せずんばあらず。又城櫓の勢を觀て、以て懷古の念を存す。厥の後藩公上總に移封され、徳川氏の臣屬來住し、城郭日に頽𡉏に就き、復た脩理を加へず。荒烟濠に籠り、蔓草堞を蒙ひ、四顧悽涼たり。仰いで天主臺の老樹蒼烟の間に隱見し、其の下の林藪蛇蝎の窟宅と為るをを望めば、過る者躊躇低回して去ること能はず。
廢藩の命下るに迨んで、縣官來り治め、其の濠を填め、其の堞を毀ちて、其の樹を伐る。當時頽𡉏の状復た見る可らず。
今茲七月歸省し、復た城墟を覽る。嚮の天主臺は已に士女遊觀の場と為り、凉榭を結び、茶菓を賣る。余乃ち其の欄に倚り、南のかた蒼海を眺むれば、疊波銀を湧かしめ、東のかた曠野を望めば、連疇緑を漲らしめ、亦以て襟懷を豁きて吟咏に資するに足る也。
城は天正五年に築き、而して明治六年に毀つ。中間三百載に殆く、徳川氏と興亡を相為し、以て封建の治を終る。然して夫の濠光雉影、少小觀瞻せし所、皆已に蕩然として堙滅す。而して英雄の遺構は、卒に士遊女嬉の場と為る。則ち又深く慨する無きこと能はず。遂に其の創廢の由を記して、以て後日に徴すと云ふ。明治十三年八月中澣。
2022年8月31日公開。