日本漢文の世界


學橋大郷君墓碣銘解説

 大郷学橋(おおごう・がっきょう)について知る人は、今日ではほとんどいないと思われます。堤静斎先生のこの文章がなかったならば、彼の事跡は歴史のかなたに埋没していたはずです。
 この文章は、安政の大獄の荒波をくぐった当事者の一人がその一端を伝えたものです。当時の情勢は、非常に緊迫していました。「内憂外患一時に並び起こる」とあるとおり、米露の外圧に加え、将軍の世継ぎ決定をめぐっての政争がありました。
 この「将軍世子問題」というのは、第13代将軍・徳川家定(1824-1858)の晩年、実子がなかったため、一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)を推す一橋派と、紀州の徳川慶福(よしとみ)を推す紀州派の政争となったものです。
 一橋派は、水戸老公、尾州公、越前公、薩摩公、そして土佐公・山内容堂らがいました。これに対し、紀州派は大老・井伊直弼、老中・松平忠固らです。この政争は紀州派が勝利し、世子は徳川慶福に決定、慶福は十四歳で将軍職を継ぎ家茂(いえもち)と名乗りました。紀州派の勝利に伴い、一橋派の水戸老公は駒込の屋敷に幽閉、尾州公は外山の屋敷にて隠居、越前公は致仕謹慎という処罰を受けました。
 土佐の山内容堂公に対しても処罰の動きがあり、井伊大老は京都にいた鯖江公・間部詮勝(まなべ・あきかつ)に決議を取るため、使者を送りました。このとき主君を守ろうと土佐藩士・橋詰敏という人が、幕臣である堤静斎先生に政治工作を依頼してきました。そこで静斎先生は、間部公の側近であった大郷学橋に相談しました。学橋は、すぐに藩主を諌める役を買って出ました。
 学橋の必死の諌めにもかかわらず、山内公は隠居のうえ家督を養子・豊範にゆずり、謹慎となりました。そして、静斎先生と学橋との政治工作も幕府の咎めを受け、静斎先生は逮捕の危機に直面、学橋は江戸から鯖江へ召還となりました。
 大郷学橋はもともと地味な性格で、昌平黌にいたころも尊攘派からは快く思われていなかったようです。重野成斎博士が昌平黌の寮長をしていたときのことを述懐して次のように述べています。(三浦叶著『明治の碩学』汲古書院、243ページ)
「昌平黌で書生寮の寮長をしていた時の事である。鯖江の人で大郷巻蔵(おおごう・まきぞう=学橋の通称)と云う人があった。普通の書生より金持であったが、一度も皆んなに奢った事がないので悪口されていた。然し表面から曰う者はなかった。すると或る時松本奎堂(まつもと・けいどう)は何事か議論して怒って大郷に火鉢を投げて火事になりかけた事がある。(以下略)」
 松本奎堂は退学処分となり、羽蔵簡堂の塾に移ったということですが、当時の書生はどうも血気が多かったようです。この対立も「おごる・おごらぬ」というようなことではなく、根底には書生間の政治的対立があるように思われます。
 松本奎堂は松林飯山とともに静斎先生の親友でした。静斎先生は一方でこうした血の気の多い尊攘派と付き合いながら、一方で学橋のような慎重な保守派とも付き合っていたわけです。
 明治維新は人人の運命をがらりと変えてしまいました。静斎先生は新政府に出仕したこともありますが、旧幕臣のため志を得ず、辞して市井に教授して清貧に甘んじました。学橋も廃藩後は職を失い、上京してきます。山内公を介しての猟官を勧める人もありましたが、学橋は断ります。そして、学橋も塾を開いて漢学を教授し、糊口をしのいだのです。
 私はたまたま大郷学橋の編集にかかる『増注補論 十八史略読本』(全七冊)を所蔵しています。この本は、上欄に語注があり、本文の間に所どころ補論を差し挟むという体裁です。私はこの本の編者「大郷穆」がいかなる人か知る由もありませんでしたが、静斎先生のこの文を読んで、大志ある人であったことを知りました。そのような人が通俗教科書を作って糊口をしのがねばならなかったとは、時勢とはいえ、まことに気の毒なことでした。

2006年6月18日公開。